一人一人の考える力 脳が世界をつくる 脳の世界に存在しないものは、思考できない
右へ倣えは、すさまじい
思考することができなければ、簡単に右へ倣(なら)えの状態に陥(おちい)ります。
一見、みながすることは幸福感を得やすい生き方のようでもあります。
それは、国が亡(ほろ)びないための政治の知恵です。
ごく自然に、みながすることと同じように自分もする、というのは、危うく、すさまじいことです。
そこでの意識は希薄(きはく)でしょう。
思考が働いていない。
一人の思考の損失は、国、世界の損失
思考しなければ、人の心性はいつしか、楽をしよう、得をしよう、みなの言う通りにしよう、などとなるものです。
それは、一度きりの自身の人生の大義を見失わせることでもあり、国の損失、世界の損失でもあります。
(しかしながら、考えない人間がいることを喜ぶ者もいます。
彼らには、そのほうが都合がいいのです。
彼らは、いつの時代にもいます。)
一人一人が自分の頭で考えられなければ、一人一人が困ります。
それは、自分自身が、目の前の人が、家族が、社会が、国が、世界が困るということです。
ミクロ、マクロの構図は、言葉の成り立ちがそうであるように、身体の成り立ちがそうであるように、あらゆる世界にあります。
脳が世界をつくる
異国の地の紛争を知らない人は、それへの思考が働きません。その人の思考、それはつまりその人の生きる脳の世界です。
その世界では異国の紛争はなく、その異国自体、存在しないことにもなってしまいます。それでは、異国への何かしらの考えも、アクションも起きようはずがない。
その人の生きる世界は、その人の脳がつくりだすんです。
遠い国の出来事についてだけではありません。
目の前にあるものについても同じです。
人は、自分の頭で考えるということをしなければ、目の前にあるものも見えなくなってしまいます。
目の前の人の思いも、社会の現状も、世界の今も行く末も、みな、見えなくなってしまう。
自分の目で見ようという意思は、自ら考えようという意思です。
それは、自身の思考の働きであり、脳の動きです。
脳の世界に存在しないものは、思考の糧とはならない
見ようとしない情報、事象、一語は、存在しない情報、事象、一語です。
脳の世界で存在しないそれらが思考の糧になることはなく、思考が磨かれることもありません。
思考が働かなければ、人は、大きなシステムの中で、いつの間にか木偶(でく)にもなってしまいます。
日々の生活は、いったい、自らの意思で行っていることなのか、得体の知れない何ものかにさせられていることなのか、わからなくなってしまう。
自分は自由に楽しく生きている、などと笑っていたら、実は知らぬ間に生かされていた、などということにもなりかねない。
持っている才能に、自分自身が気づくことすらなく一生を終えてしまうのも、それです。
思考は、頭の中だけのものではない
多くのことを知るとは、多くのことに気づける、多くのことを感じられる、多くのことを考えられるということです。
磨かれた思考というものは、他者への何らかの思いやりにつながるものです。
思考の力が確かなものであればあるほど、必ずそうなります。
多くのことが見えるからです。
思考は、頭の中だけのものではありません。
それは、自身の生きる力となり、多くの人の力となる。