芭蕉の作品と「俳句」と「発句」と「俳諧の連歌」の基礎知識
松尾芭蕉 基礎知識
芭蕉
江戸時代初期の俳人
俳号 芭蕉
別号 桃青(とうせい)
風羅坊(ふうらぼう)
俳諧の連歌
いわゆる「俳諧」とは、正確には「俳諧の連歌」のことです。
「俳諧の連歌」は、卑近(ひきん)・滑稽(こっけい)を旨(むね)としていました。
江戸初期、これを、芸術の域にまで高めていったのが、芭蕉です。
俗な世界、俗な言葉を扱いながら、高雅閑寂(こうがかんじゃく)の境地を切り開きます。
俳諧の連歌の形態 発句から俳句
俳諧の連歌は、五・七・五の長句と七・七の短句を、複数の人間が、くりかえし唱和していくのが基本形態です。
※「唱和」→ 五・七・五の長句を一人がつくる → 七・七の短句を次の一人がつくる → 五・七・五の長句を次の一人がつくる → 七・七の短句を次の一人がつくる → 五・七・五の長句を次の一人がつくる → ……(これをくりかえす)
句数によって、歌仙(かせん【三十六句】)・四十四(よよし)・五十韻・百韻・千句・万句などの形式があります。
古くは、百韻を基準としていましたが、これは、なにも、百句を通して意味を一貫させるのではなく、連続する2句の間の付合(つけあい)や全体の変化などを楽しみます。
芭蕉の頃は、句数三十六の「歌仙」が代表的な形態でした。(三十六歌仙に因【ちな】んで、三十六から成るものを、「歌仙」といいます。)
※「付合(つけあい)」とは、前句につける付句(つけく)をつくることです。
第1句の五・七・五を「発句(ほっく)」といい、切れ字と季語が必要とされます。
この「発句」が、明治期、正岡子規の俳諧革新運動によって、「俳句」と呼ばれるようになるわけです。
※付合で、「発句」の次に付ける七・七の句を「脇句(わきく)」、または「脇」といいます。第3句を「第3」。最終句の七・七は「挙句(あげく)」です。
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芭蕉の時代
「俳諧の連歌」
(長句)五・七・五 → (短句)七・七 → 五・七・五 → 七・七 → ……
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「発句(ほっく)」= 正岡子規により、「俳句」と呼ばれるようになる。
蕉風(正風)
芭蕉は、「貞門」、「談林」を経て、「蕉風(正風)」を開きます。
「貞門」→ 松永貞徳(まつながていとく)を祖とする俳諧の流派。伝統的、方式的な俳風。
「談林」→ 江戸の田代松意を経て、大坂の西山宗因(にしやまそういん)を中心とする俳諧の流派。軽妙な言葉を使い、滑稽(こっけい)な着想を特色とする。
蕉風(正風)
「さび」「しおり」「ほそみ」「かるみ(かろみ)」を重んじ、幽玄(ゆうげん)、閑寂(かんじゃく)の境地を主とし、形式は必ずしも古式、伝統に従わず、特に付合(つけあい)は余情を含んだ匂付(においづけ)を尊重する。
「幽玄」 → 言外に深い情趣、余情のあること。表現を通しての情調的内容(、趣【おもむき】)。
「閑寂」 → ものしずかさの洗練され、純芸術化されたもの(趣【おもむき】)。
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俳諧の連歌
(長句)五・七・五 ← 「発句」
↓ 付合
(短句) 七・七 付句
↓ 付合
五・七・五 付句
↓ 付合
七・七 付句
↓
…………
「付合(つけあい)」 → 前句につける付句(つけく)をつくること。
※長句→五・七・五 短句→七・七
前句が長句(五・七・五)ならば、付句は短句(七・七)で付ける。
前句が短句(七・七)ならば、付句は長句(五・七・五)で付ける。
「匂付」 → 前句の余情を受けて、それに応じる付句をを付けること。「蕉風」は、これを尊重しました。
芭蕉 作品
俳諧七部集(芭蕉七部集)
蕉門の代表的撰集「冬の日」「春の日」「曠野(あらの)」「ひさご」「猿蓑(さるみの)」「炭俵」「続猿蓑」の7部を合わせたもの。
(「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「春の日」に所収。)
紀行文
「野ざらし紀行」(甲子吟行【かっしぎんこう】)
1684年、伊勢・郷里伊賀・大和・近江・美濃・尾張・甲斐・江戸の紀行。
「鹿島紀行」(鹿島詣)
1687年、曾良、宗派と常陸(ひたち)鹿島へ月見に行った際のもの。
「笈の小文」(おいのこぶみ)
1687~88年の尾張・三河・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て須磨・明石の紀行。
「更科紀行」(さらしなきこう)
1688年、越智越人と尾張・木曽路信州更級の里姨捨山の月見に行った際のもの。
「奥の細道」
芭蕉は、人生そのものを「旅」と観(み)ていて、それを冒頭に記したのが「奥の細道」です。
原文
月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして行きかふ年も又旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
現代語訳
月日は永遠に旅を続ける旅人(のようなもの)であり、(毎年)去っては来て、来ては去ってゆく年もまた旅人(のようなもの)である。
舟の上で一生を過ごし(ている船頭や)、馬の轡(くつわ)をとって老いを迎える者(馬子)は、日々の生活が旅であって、(いわば)旅を自分の住処(すみか)としている。
幸若舞 敦盛「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」にも触れています → 奥の細道 末の松山 原文と現代語訳
奥の細道のルートはこちら → 五月雨や大河を前に家二軒 五月雨をあつめて早し最上川
俳文
「幻住庵記」(げんじゅうあんのき)
1690年4月~7月まで滞在した幻住庵について記したもの。一所不住の議論。翌年「猿蓑」に所収する。
「嵯峨日記」(さがにっき)
1691年、向井去来の別荘嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に滞在した際の句文の日記。門弟についてなどをつづる。
「風俗文選」(ふうぞくもんぜん)
森川許六(もりかわきょりく)による編。蕉門の俳文を集め、作者列伝も記す。
俳論
「去来抄」(きょらいしょう)
向井去来の俳論書。「先師評」「同門評」「故実」「修行」の4部から成る。
去来が芭蕉から聞いたことを記したもの。
「さび」「しおり」「不易流行」などが記されている。
「三冊子」(さんぞうし)
服部土芳(はっとりとほう)の俳論書。
「しろそうし」「あかそうし」「わすれ水」から成る。
「不易流行」など、芭蕉の俳諧理念について記されている。
不易流行
芭蕉の作句態度(「三冊子」より)
不易 → 詩の基本である永遠性。
流行 → その時々の新風の形。
不易も、流行も、風雅の誠から出るもので、根元においては一つである。
※芭蕉の作句態度や俳諧の理念は、ほとんどが、芭蕉の門人が残したものです。
芭蕉の俳諧理念
わび(侘)
閑寂な風趣。
↓
さび(寂)
閑寂味の洗練されて純芸術化されたもの。閑寂な情調。
しおり(撓)
人や自然を哀憐(あいれん)を持って眺める心から流露したものが自然と句の形に現れたもの。
ほそみ(細み)
句の内容的な深さ。
作り手が幽玄の境地に入って捉える美。
※幽玄 → 言外に深い情趣、余情のあること。表現を通しての情調的内容(、趣【おもむき】)。
かるみ(かろみ【軽み】)
かわりゆく現実に応じた、滞らない軽やかさを把握しようとする理念。
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夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉 「奥の細道」平泉 俳句 前書からの読解
閑さや岩にしみ入る蝉の声 場所と解説 「奥の細道 立石寺」現代語訳
蕉門の十哲
芭蕉門下の十人のすぐれた俳人です。(十哲については、諸説あります。)
宝井其角(たからいきかく)
服部嵐雪(はっとりらんせつ)
森川許六(もりかわきょりく)
向井去来(むかいきょらい)
各務支考(かがみしこう)
内藤丈草(ないとうじょうそう)
杉山杉風(すぎやまさんぷう)
立花北枝(たちばなほくし)
志太野坡(しだやば)
越智越人(おちえつじん)
(河合曾良【かわいそら】)
(三上千那【みかみせんな】)
(天野桃隣【あまのとうりん】)
(服部土芳【はっとりどほう】)
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