大学入試制度改革に思う 国語の記述問題と論理と客観
- 1. 学力格差 地域格差 経済格差を助長する改革
- 2. 国語の記述式問題の無理
- 3. 学問の入り口としての国語
- 4. 意味は、一つ一つの言葉から成る
- 5. 客観的、論理的な思考のスタートライン
- 6. 客観的、論理的な世界は、ミクロ、マクロに存在する広大な世界
- 7. 読解問題は、客観的、論理的な思考力の確認
- 8. 思考の働かない人間の、自己主張の危うさ
- 9. 教科書が読めない子は、教科書が読めない大人になる
- 10. 母語で深く思考するということ
- 11. 個の思考力の問題は、世界の思考力の問題となる
- 12. 読解センスは、人間の違い
- 13. 客観、それは、目の前に存在している言葉
- 14. 客観は、主観が破られた先にある
- 15. 心とは、思考のことである
学力格差 地域格差 経済格差を助長する改革
大学入試が変わろうとしています。
しかしながら、問題は、山積です。
制度改革とは名ばかりで、まるで良くなる気配はありません。
文科相の「身の丈」発言まで、ありました。
教育は国家百年の計、という言葉も泣いています。
どうやら、この改革は、学力格差、地域格差、経済格差の拡大を助長するために行うようです。
ひどいものです。
国語の記述式問題の無理
国語では記述式の問題、そして採点が話題です。
記述式問題の実施は、無理がありますね。
公平性が保たれるわけもありません。
明確な採点基準をつくることなどできません。
そもそも、解答する側も、採点する側も、客観的・論理的な読み方、書き方を、理解していないでしょう。
どちらも、学んでいない。
学校国語は、今も昔も、「なんとなくの国語」のままです。
学問の入り口としての国語
一年近く前の、新聞の投稿記事を思い出しました。
それは、本の好きな女子高校生からの投稿でした。
試験の国語の問題の正解より、自分の答えのほうがいい、というものでした。
彼女は、国語の先生に質問もしてみたようです。
しかし、納得のいく説明は得られなかった。
彼女は訴えます。「一人の答え、考えを、尊重すべきだ。国語という教科の在り方そのものが間違っている」と。
彼女が受けた試験の問題と答えの質がどのようなものなのかは、わかりません。(作り手によっては、本当にひどいものがあります。それは、採点もひどい、ということです。だから、大学入試制度改革で、記述式問題の導入など、まったくもって、無理なのです。)
しかしながら、投稿主の彼女は、「国語という教科の在り方」を理解していないようです。
また、それを教わる機会も得られなかったようです。(先生に質問しても、納得できなかったのですからね。)
そもそも、国語は、学問の入り口としてあります。
客観的、論理的な思考の原点として。
それがなかったら、学校教科としての存在意義などないでしょう。
で、大昔から、ないわけです。
意味は、一つ一つの言葉から成る
投稿主の彼女が解いた問題とその答えを見ることはできないので、ここでは、センター試験の国語の問題について話をします。
センター試験の国語の問題は、大変よくできています。
その正解と不正解には、明確な違いがあります。
それは、言葉の違いです。
一語一語の違いです。
不正解の答えには、正解の意味をつくるのに必要な言葉が足りません。そして、正解の意味とは異なる意味をつくる言葉が存在しています。
正解は、一つの意味・内容を、過不足のない言葉でつくられています。(ごくたまに、過不足があることもありますが、ほとんどの場合、まず正確です。
センター試験の問題と答えは、問題作成者の主観だ、などという人間が時折いますが、彼らは、客観と論理を知らない人間です。そういう人間が作る問題こそ、主観的なものです。)
文章の意味・内容とは、目の前の、一つ一つの言葉から成るのです。
行間の意味も、目の前の一つ一つの言葉から生まれます。
(これは、当たり前のことなんです。しかし、この当たり前のことへの理解のない人がけっこうな数でいる。それぞれの脳で共有できないものは、当たり前にはならないのですね。)
客観的、論理的な読解とは、目の前のものを受けとめるところから始まります。
しかし、その理解のない人は、読解の際、目の前の言葉から離れてしまう。
自分の頭の中の言葉で思考しようとするのです。
主観です。
客観的、論理的な思考のスタートライン
目の前にあるものの正確な理解。
それがどのような学問においても、起点となり、基点となります。
学校国語は、学問の入り口としてあるのです。
だから、論理的に、意味の破綻のない文章を扱うのです。
客観的、論理的な思考力を、教わるためです。教えるためです。
目の前に記されている一つ一つの言葉が、文章の意味・内容を表している。
その理解から、客観的、論理的な思考は始まる。
まずは、客観的、論理的な思考のスタートラインに立つこと。
それが、重要です。
教わる側も、教える側も。
客観的、論理的な世界は、ミクロ、マクロに存在する広大な世界
読み方にしても、書き方にしても、考え方にしても、自分の狭小な世界だけで通用するやり方を、客観的、論理的とは言いません。
独りよがりな思考は、自分の意に沿わぬものや、自分と異なるものを排除しようとする力へと働きます。
意味の破綻のない目の前の文章を理解できないのは、理解しようとしない、ということでもあります。
それは、思考停止の状態です。
頑固は、頑迷なのです。
客観と論理の力は、広大な世界を知るためにあります。
それは、細胞から宇宙という、ミクロ、マクロに存在する現実の世界です。
客観的、論理的な思考力は、個の力となり、多くの人人を助ける力となります。
私たちが、本来、学ぶべき国語は、客観的、論理的な言葉の扱い方であり、その思考の力です。
日常生活の中の言葉の扱い方とは違う言葉の扱い方を、新聞の投稿主も、これから先、本物の学問と出会うことで、きっと気づくことでしょう。
そして、個の力を発揮することでしょう。多くの人人の力となることでしょう。(これは私の願望です。)
読解問題は、客観的、論理的な思考力の確認
大学入試等における、客観的で、論理的な読解問題とその答えは、論理的な文章からつくられます。
そもそも、 客観的で、論理的な読解問題とその答えは、論理的な文章からしか、つくれないからです。
論理的な文章とは、配置されている一語一語に、意味の破綻のないものをいいます。
そこには、意味の連続性があります。
意味・内容は、「書き方」という言葉の配置から生まれるのです。
名作といわれる小説作品も、論理的に言葉が配置されています。
だから、意味・内容の破綻がないのです。驚き、感動するのです。
そもそも、現代文の問題も、古文の問題も、漢文の問題も、英語の問題も、客観的、論理的な思考力の確認のためにあります。
個の独創的な発想の確認は、その先にあるのです。
他者の考えを、客観的、論理的に理解できずに、自分の独りよがりな考えだけを主張するのは、おかしな話でしょう。
入試問題というのは、基本確認なのです。
思考の働かない人間の、自己主張の危うさ
昨今は、どうも、自己主張することばかりに重点が置かれているようです。
本来、価値ある他者の言葉を、理解する力を身につけることが、基本学習です。勉学です。
その基本の力を持たずに、ただ自己主張する姿は、危うい姿です。
しかし、それは、悪政にいいように操られる人間の姿でもあります。
思考の力を持たないからです。
思考の力を持たない人間の世界は、崩壊します。
彼自身の世界も、彼らがつくる世界も。
教科書が読めない子は、教科書が読めない大人になる
基本の力が身についていなければ、教科書も読めなくなるわけです。
世間は、「教科書が読めない」子がいる、などと、大騒ぎしていますね。
しかしながら、「教科書が読めない」子の存在は、今に始まったことではありません。
昔から、「教科書が読めない」子どもは、いました。
マスコミが、騒がなかっただけです。
「教科書が読めない」子どもは、何の努力もしなければ、「教科書が読めない」大人になります。
教科書が読めない大人とは、努力を知らない大人ということです。
現実の問題の根の深さもそこにあります。
母語で深く思考するということ
今般の入試制度改革のみならず、ここ十数年来の学校改革を、私はずっと危惧しています。
自分自身で思考することのできない人間を増やす似非改革だからです。
小学校からの英語早期学習で、子どもたちの、国語による思考力はより一層、落ちるでしょう。
人によっては、国語による思考力を磨く機会を、一生、失うかもしれません。
日常会話の力で、客観的で、論理的な思考はできないからです。
その力を教わる環境に生きている子どもは、そうそういないのが現実です。
それを知らない人間が、「教科書が読めない子がいる」などと大騒ぎするのです。
日常英会話の力でも、日本語による日常会話の力でも、客観的、論理的な思考の力はできません。
経済力のある家庭の子息だけが、それを学ぶ機会を得られる。
学習環境の格差は、地域格差で、経済格差です。
この十数年の学校改革は、地域格差、経済格差を、推し進めています。
しかしながら、どこの国にしろ、母語で深く思考することのできない国の未来は危うくなります。
個の思考力の問題は、世界の思考力の問題となる
個は、社会、国、世界と通じています。
社会、国、世界には、他者が存在します。
自分自身で思考することができない人間は、他者の存在を慮(おもんばか)ることもできなくなります。
一生会うこともない人間のことも、目の前にいる人間のことも。
個の思考力は、社会の、国の、世界の大問題となるのです。
入試制度改革は、現実を見ていません。
あるいは、よく見ていての施策(しさく)なのでしょうか。
もし、そうであれば、恐ろしい話です。
ひどい話です。
読解センスは、人間の違い
読解力は、思考力です。
客観的、論理的な読み方、考え方というものは、学ばなければ、身につかないものです。
客観的、論理的な読み方とは、どういうものなのか。
知らない人が多いのは、教わったことがないからです。
見たことがないからです。
なんとなくの国語の授業というものは、教師の読解センスの披露です。
多くの人が経験しているように、それは生徒の読解力の向上にはなかなかつながりません。
教師と生徒一人一人では、知識も、経験も、生活環境も、性格も違うからです。
違う人間だからです。
同じ視点に立てないのです。
読解センスの違いとは、人間の違いです。
だから、教える側の読解センスの披露というものは、力のある生徒には、いくらか参考にはなっても、力のない生徒には、ほとんど役に立たない。
壁があるのです。
客観、それは、目の前に存在している言葉
私は、初めて国語を生徒に教えることになった時点で、「ついざき式」などといわれる独特なやり方で、国語を教えました。
自分が生徒時代に受けてきたような、なんとなくの国語の教え方は、絶対にしない、と教壇に立つ前から決めていました。
私の読解教授法は、 私と生徒が、目の前に存在している言葉を共有するというもの。
私は、言葉の扱い方を、生徒に「見せる」のです。
「客観」は、目で確かめられなければいけません。
なにしろ、教える側の頭の中は、生徒には見えませんよね。そもそも、見せようとしても無理です。
見せるべきは、教えるべきは、「客観」なのです。
それは、「目の前の言葉」です。
その言葉が、どのように存在しているのか。
客観的な言葉の扱い方を学ぶとは、言葉の論理的な扱い方を身につけるということです。
目の前の言葉は消えません。
生徒は、自分の目の前に、客観的に存在する言葉を、いつでも確認することができます。
これは、自分の頭の中で、なんとなくの作業、独りよがりな作業をしない状態でもあります。
その状態で、私は、目の前の言葉の論理的な扱い方を、生徒に「見せる」のです。
独りよがりな主観さえ入らなければ、客観と論理という新しい力は、誰でも、確実に身につけられるものです。
客観は、主観が破られた先にある
論理的な思考力は、論理的なしっかりした内容の本を読むことで磨かれていきます。
しかし、独りよがりの主観で、いくら沢山の良本を読んでも、効果はありません。
わかったつもりになるだけで、成長へとつながらないからです。
我(が)をより強固なものにし、独断と偏見を助長する恐れだってあります。
差別やいじめは、そこから生まれます。
成長には、自信も必要ですが、自省も必要です。
客観は、主観が破られた先にあります。
論理的な思考力は、客観という思考の力から成ります。
心とは、思考のことである
量やスピードの時代は、AIの進化によって終わりました。
これからの時代、人間は、「質」の重要性を思い出さなければいけないように、私は感じます。
食品にしても、製品にしても、建物にしても、本の読み方にしても、自身の生き方にしても。
質は、中身であり、心です。
心とは、思考です。
大学入試制度改革がよりよいものとなりますように。
そうして、よりよい日本に。
よりよい世界に。