何を読めばいいのか おすすめは「本物」の書き方をしているものを読む
感動がなければ本ではない
何を読めばいいのでしょう。
感動がなければ本ではない、と僕は考えています。
くだらぬ本を読むような時間は、誰にもありません。
おすすめは、「本物」です。
死ぬまでに読むべき良書というものは、数え切れぬほどあります。
親に本を残してもらった子は、幸せです。
親に読み方を教えてもらった子は、より幸せです。
悲しいかな、そういう子は少ない。
同じものを書くという稚拙さ
本来、本が人を引っ張るものですが、現実は大衆に本が引っ張られているようです。
本が大衆に迎合(げいごう)し、思考停止している。
最も顕著にわかるのが、「見出し」です。
本文の言葉をそのまま使っている。
同じ文字をただ記している。
それを当たり前のものとしている。
この「見出し」の書き方は、あまりにも稚拙です。
最も深い意味は、書かれない
本当は、「見出し」にしても、「タイトル」にしても、行間の意味、つまり本文に記されていない文字を使うべきなのです。
書ける言葉は、いくらでもある。
最も深い意味は、行間から生まれます。
それは、書かぬことで、生まれるのです。
しっかりした文芸作品はその姿をしています。
新聞にしても、ビジネス書にしても、参考書にしても、大衆にわかるようにわかるようにと同じ言葉を何度も何度も書く。
大衆に迎合しているうちに、それが本流となっています。
思考停止しているのです。
読めない人間が悪いのか。
読めないままにして、成長を促さない、育てようとしない、思考停止の本が悪いのか。
本が人を育てずにどうする。僕はそう思います。
AIに合わせていては、書く力など身につかない
ネット記事の「見出し」も同じです。
Googlebotは、行間を読めません。記されている文字を、クロールして、インデックスするだけです。
だから、僕もこのサイト、恥ずかしい「見出し」の書き方をせざるを得ません。
(Googlebotとは、ネット上のページを巡回し、クロール、インデックスするロボットです。クロール、インデックスとは、記事や画像を読み取り、検索できる状態にすることです。)
しかしながら、ロボットやAIは行間を読めなくても、人間はそれを読めます。
行間の意味をつくることもできる。
ネット上で、ロボットやAIに合わせた書き方をするのは仕方ないこととしても、いつもその書き方をしていては、駄目でしょう。
その書き方ばかりをしていては、いつまでたっても、書く力は身につきません。
私たちは、人間です。
個の文章が「形」となるのは、自身の言葉を文字にしたり、行間に隠したりすることによってです。
「型」だけの文章に、魅力がないのは「形」になっていないからです。 自分の言葉がないからです。
良書という「本物」を読む
良書は、自然に生き残っていくものだったのですが、だんだん、そうではなくなっています。
読まれないから。
売れないから。
もっとも、ショーペンハウエルの時代から、いくらかその傾向はあったようです。
新刊ばかりをまわしていくことを、ショーペンハウエル(1788~1860)も「読書について」(岩波文庫)で嘆いています。
ショーペンハウエルは、歯に衣着せぬ論調ですから、おもしろいですよ。ぜひ、読んでみてください。
良書は、今を生きる私たちが、次世代に引き継がねばならない宝です。守らなければいけない「本物」です。
それには、私たち一人一人が、それを読んでいくことでしょう。
専門分野の入門書
おすすめの本として、文学的文章の本は、今回記しません。
文学の「本物」は、わざわざ記すまでもないですよね?
(そのうち、いつか、記すかもしれませんが。)
で、文学以外の本です。
いきなり、専門書などというのは、抵抗があるかもしれません。
高額でもありますしね。
新書や選書は、どうでしょう。
あらゆるジャンルが揃っています。
ハウツーものではない、専門分野の入門書などは、知的興奮とともに、楽しく読めるはずです。
じつは、新書や選書から、大学入試の読解問題は数多く出題されます。
入試の読解問題に使われる文章は、それほど難しい言葉を使わずに、論理的に書かれている文章なのです。
問題集は、おすすめ本を紹介しているようなもの
書店の参考書売り場には、全国の大学入試の国語の過去問を載せた分厚い問題集があります。
それら問題集は、おすすめ本を紹介しているようなものです。
そこには、読み応えのある論理的な文章がたくさん載っています。
入試問題は、最近の本から抜粋されて作成されるのがほとんどなので、あなたの興味をひくものが必ずありますよ。
文章の最後に、( )書きで、本のタイトルや著者名が出ています。
書店内でそれを確認すれば、すぐにお目当ての本のところへ行けますね。
これまで、僕も、入試問題で使われている文章を読んで、興味を持ち購入したという本がかなりたくさんあります。
入試問題でお馴染みの、外山滋比古さん、森本哲郎さん、山崎正和さん、河合隼雄さん等等は、古いもののほうが良いです。文法を知っている方たちなので、きれいな、やさしい書き方をしています。
小林秀雄、江藤淳なども、読むべきでしょう。
僕がこのサイトでもときどきいう「本物」とは、「本物」の書き方です。
いわゆる文法ミスのない書き方。
書き方が内容を表すんです。
書き方の理解は、内容の理解です。
もちろん、「本物」の書き方をしているからといって、その書き手の思想を全面的に肯定する必要などありませんよ。
ただ、その内容は受けとめられなければ、正確な理解には至りません。
読めてもいないのに、あれこれと批判するなどは、論外です。
内容の理解が、自身の思考の糧となり、その先に、自分自身の本当の思考が始まるわけですから。
大切なのは、本の「質」、読み方の「質」
読み方は、拙著や、このサイトを参考にしてください。
一助となるはずです。
拙著は、参考書も、大人の読み物として、役立ちます。
「評論の読み方」、「小説の読み方」の問題の解き方は、まったくもって文章の読み方です。
論理的な「予測」の読み方ができるようになります。
「50の方法」は、親御さんが読むようにも書いていますから、十分に大人が読めます。文法の基礎から応用までも記しています。
文法の応用は、読み方であり、書き方です。
読書において、大切なのは「質」です。
量ではありません。
本の「質」、読み方の「質」です。
質の高い読み方が、質の高い本を、より生かします。
読書というものを、より意義のあるものにします。
「本物」が、見る目を鍛える
目利き、鑑定人は、偽物を見て、勉強をするようなことは絶対にしません。
「本物」だけを見ます。
「本物」だけから学ぶのです。
それにより、見る「目」ができます。
偽物を見れば、瞬時に違和感を覚えるようになります。
「本物」だけが、見る「目」を鍛えるのです。
読解力、思考力は、「本物」を読むことで身につく
読解力も、鑑定人の「目」と同じです。
「目」は、脳です。
読解力を磨く、何よりのものは「本物」の書き方をしているものです。
良書と呼ばれるものです。
それは、時間を気にせずに、じっくりと読むべきもの。
何度も向き合うべきもの。
本来、読書とは、そういうものです。
「目」が磨かれれば、つまらぬ本はとても読めなくなります。
書き方の破綻が見え、内容の破綻が見えるからです。
書き方と内容は、表裏一体なのです。
言葉には相性がある
意味を成り立たせる際には、言葉をつないでいくわけですが、言葉には相性があります。
適合するか、しないか。
その理解が語彙力です。
たとえば、論理的なものを説明する際に、「飛躍」という言葉は合いません。
使うべきではない。
そもそも、「論理」と「飛躍」では、「論理の飛躍」です。
それは、論理的でないことをいう言葉です。
論理を謳う際に、「飛躍」は適さないのです。
「言葉の扱い方」という語句と「吟味」という言葉も適しません。
「吟味」は、そもそも、詩歌を吟じ、味わうことですが、そこから、物事を詳しく調べ選ぶ意を派生させている言葉です。
「『言葉の扱い方』を吟味すれば」なんて、語句として成り立ちません。
「言葉を吟味する」です。
「目」を持っていれば、言葉の相性などというものは、瞬時にわかるものです。
読む力は、書く力そのものです。
読めなければ、書けない。
切り貼りのような言葉のつなぎ方を、「書く」とは、とてもいえないのです。
自省することで、成長していける
「本物」の文章に接していくことでしか、「目」は養われません。
そして、その「目」は、客観的な、謙虚な気持ちがなければ、得られない。
成長はまずできない。
わかったつもりになって、プライドばかりが高くなるからです。自分の力に気づかないのです。
名人、達人が、より高みに達することができるのは、考えるからです。自省するからです。
自省は、今の自分に足りないものを考えられる力です。己に厳しく生きていく姿勢です。
人間は、自省することで、いつまでも成長していくことができます。
でも、張り詰めてばかりの糸って、いつか切れるものなんですね。
くつろいだり、楽しんだりする時間がないと。
そういう時間もまた必要なんですよね。