文章の書き方 意図を持って書いたもの
続き記事です。
この記事は、その5です。
こちらからどうぞ。
→ その1 書き方がわかれば、読める
→ その2 読解時の視点、書く際の視点
→ その3 客観的な読み方、考え方
→ その4 修飾する言葉と、修飾される言葉
前回からの続き記事です。
一文で書くか、二文で書くか 問題
次の記事は、日経新聞「春秋」2018/4/27。
「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」。詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を「あどけない話」という作品にそう残している。東京で体を壊しては故郷の福島で調子を戻す。そんな彼女にとり、本当の空は故郷の山の上に広がる青空だった。
「空が無い」東京も、終戦直後は広々とした青空が覆っていた。東京・九段下の博物館「昭和館」で開催中の写真展「希望を追いかけて」で、改めて知った。焼け跡、バラックの家、平屋かせいぜい2階建ての商店街。永田町も渋谷も表参道も、空の青さとそこここに残る緑が印象的だ。撮影者は米国の鳥類学者だという。
同じ昭和館で「女学生たちの青春」という企画展も開催している。こちらは戦争中の写真が中心で、訓練で銃を構え、ガスマスクを付け、あるいは動員されて工場や畑で働く少女たちの緊張した面持ちが並ぶ。比べて見るせいか、戦後を生きる人々の顔は子供も大人も明るい。あけっ広げな街の空気が、それとよく似合う。
いま東京は何度目かの再開発ブーム。オフィスに商業施設に小ぎれいなビルが増え、空は狭くなるばかりだ。「一億総活躍」の旗のもと、そこで働く人たちの顔は輝いているだろうか。智恵子は最後に心のバランスを崩した。明日から連休。しばし喧噪を離れ、ふるさとで、近くの公園で、自分だけの青空を探すのもいい。
引用は以上。
「前回の問題です」
「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」
詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を「あどけない話」という作品にそう残している。
よって、第一文と第二文をひとまとまりに、一文に書きかえることも可能です。
詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を「あどけない話」という作品に「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ」と残している。
では、ここで問題です。
問 どうして、「春秋」の書き手は、二文で書いたのでしょう。
① 長い一文だと読みにくいから
② 文章最終部とのつりあい
③ なんとなくの気分
④ そんなことは、書き手本人に聞いてみなければわからない
どうして二文で書いたのか 答
答は、ここ ↓

答は、ここ、ここ ↓
正解は、②「文章最終部とのつりあい」です。
どうして二文で書いたのか 解説
「春秋」の終わりを確認してみましょう。
智恵子は最後に心のバランスを崩した。明日から連休。しばし喧噪を離れ、ふるさとで、近くの公園で、自分だけの青空を探すのもいい。
最終部に「高村光太郎」の文字はありません。記されているのは「智恵子」の文字です。そして、限定強調の「だけ」とともに記されているのは、「自分だけの青空」。
書き出しを「詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を『あどけない話』という作品に『智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ』と残している。」と一文にしてしまうと、「高村光太郎」が主語で、それがいの一番のキーとなってしまいます。
しかし、「『智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ』。詩人の高村光太郎は生前の妻の言葉を『あどけない話』という作品にそう残している。」と二文にすれば、最終部とのつりあいがとれるのがわかるでしょう。
書き出しの「智恵子のいふ(ほんとの)空」とは、「智恵子」だけの「青空」です。「自分だけの青空」なんです。
文章は、書き手の思考が形となったものです。
それは、何かしらの意図を持って書いたものです。
〈以下は、拙著『大人の「読む力」』の本来の原稿で記した内容です。〉
意味の破綻のない文章であれば、最初と最後というつりあいを確認することができます。
私のいうところの、つりあいは、意味のバランスで、やじろべえやシーソーを思い浮かべてくれてもいいでしょう。
これは、文章全体というマクロ的視点、一つの意味段落、一文というミクロ的視点においても成り立ちます。
一つの意味段落であればその書きだしと最終部、一文であれば、主語と述語ということになります。
日本語の場合、主語の記される位置は決まっていませんが、述語は(倒置法や省略法の場合を覗いて)文の最終部です。
意味の破綻がない文章なのに最初と最後の意味のつりあいが見えない、という場合は、隠れている意味に気づていないか、じつは文章が破綻していることに気づいていないかのどちらかでしょう。
ただし、芸術作品には、意図的に意味を破綻させているものもありますから、その点は留意してくださいね。
マクロ的に、全体から見た場合のやじろべえ、そしてミクロ的に見た場合のやじろべえ、それぞれの視点からのやじろべえはバランスがとれています。
最初と最後という位置関係は、最もバランスのとれる形、つりあう完成形です。
文字のバランスのとれて形は、意味・内容・思考が整っている証です。
書き方という形と、その内容は表裏一体なんです。
〈以下も、拙著『大人の「読む力」』の本来の原稿で記した内容です。〉
レオナルド・ダ・ヴィンチに、こんな言葉があります。「十分に終りのことを考えよ。まず最初に終りを考慮せよ。」(「レオナルド・ダ・ヴィンチの手記」【杉浦明平訳】〈岩波書店〉)
人生論の中で紹介されている言葉です。
生きていく上でのいろいろなことにあてはめられるわけですが、作品の制作においてもこの言葉は通じます。
何かを書く、話す、その一番の難しさは、終わらせ方なんです。それを失敗すれば、すべてが台無しになってしまうからです。
始めと終わりというものは、全体というマクロ的構想が形となったものからの始めと終わりです。
全体の完成形がなければ、始めと終わりは存在しません。
始めと終わりの意味の完成は、全体のバランス、つりあいの完成でもあるのです。
つまり、終わりを考えることは、そこからの始まりを考えること、そこへ至るまでの内容を考えることともいえるんです。
レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉を、人生という作品の完成形、と捉えれば、その終わりは死です。死を考えるということは、いかに日々を生きるかということの裏返しでもあります。人生の節目は自らでもつくれるものです。それが「始め」となります。生きていれば、いつからでも始められるのです。どのように死ねるのかは、今をどのように生きるのかにかかっています。
以上
いつからでも始められるまともな世界であってほしいですね。