接続助詞の用法 書き方 ミクロ・マクロの思考
ミクロの理解なくして、マクロの理解はない
どのようなものも、ミクロの集合体から成り立っています。
文章全体というマクロから見れば、助詞、助動詞は、ミクロの意味の代表のようなものです。
ミクロの理解なくして、マクロの理解はありません。
医師が、患者の症状を正確に捉え、最良の治療方針を立てる力は、ミクロの思考の連続性から成るものです。
全体の理解に、ミクロの意味の連続性の理解は必要不可欠なものです。
ミクロの意味の存在なくして、全体の存在はないんです。
わかったつもりの思いこみの大きな要因の一つに、ミクロの理解の欠如があげられます。
木を見て、森を見ていなかった、といいながら、実は、木も見ていないんです。
これから、文章中の接続助詞の存在を確認し、ミクロの意味と、その役割の重要性について記します。
接続助詞を使った接続語の例
接続助詞を使った接続語の一例を示します。
接続助詞が、重要な意味を持って、従属節と主節をつないでいるのを確認してください。
接続助詞と直接つながっている動詞の活用の変化、主節の主語の違いにも注意してください。
順接
(「~」に原因・理由等の条件、「……」にその結果を記します。)
~ので、……。(雨が降ったので、地は潤った。)
~から、……。(雨が降るから、地は潤うでしょう。)
~ば、……。(雨が降れば、地も潤うだろう。)
~と、……。(雨が降ると、地は潤うはずだ。)
上記の順接と、下記の逆接の例文をそれぞれ比べてみてください。
条件から結果へと続く、意味の連続性の違いは、接続助詞の違いによって、顕著に示されます。
逆接
(「~」の意味と反対の意味を「……」に記します。前後が反対の結果です。)
~が、……。(雨は降ったが、地は潤わない。)
~けれども、……。(雨は降ったけれども、地は潤わなかった。)
~けれど、……。(雨は降るけれど、地は潤わないのだ。)
~ど、……。(雨は降れど、地は潤わず。)
~ても、……。(雨は降っても、地は潤わぬ。)
~とも、……。(雨が降ろうとも、地は潤わないだろう。)
~ども、……。(雨といえども、地は潤うまい。)
~ながら、……。(雨が降りながら、地の潤う気配はない。)
~のに、……。(雨は降ったのに、地は潤わないのか。)
書き方の違いは、思考の違いで、人間の違い
上に記したのは、十三の例文です。
これを十三人の老若男女がある地に赴(おもむ)いた際に書いた報告としましょう。
十三人の老若男女は、新聞記者でも土木作業員でも検事でも農民でも高校生でも構いません。
それぞれの書き方の違いは、十三人の事象の捉え方の違いで、それは知識、経験、性格、つまり思考の違い、事象を捉える能力の違いです。
「雨」という条件、それに対しての「地」の結果を、順接の捉え方で思考する人もいれば、逆接の捉え方で思考する人もいるわけです。
しかも、文末に種種の助詞や助動詞が記されているのでもわかるように、順接、逆接の中でも、それぞれ、微妙に意味が違っています。
言葉の違いは、思考の違いで、人間の違いです。
助詞、助動詞は、人の心情の奥底を垣間見せます。
報道記事であっても、助詞、助動詞の扱い方で、文章の印象は大きく違ってくるんです。
助詞、助動詞を捉える力は、思考の力と大きく関わっている
読解する場合においても、記述する場合においても、助詞、助動詞を捉える力は、どれだけ深く、思考できるか、読めるか、書けるか、ということと大きく関わっています。
ミクロ的思考は、マクロ的思考と表裏
事象の捉え方、ということについて少し触れておきます。
一つの事件も、病気も、一人の人間の私情、能力によって、事実とは異なって捉えられてしまう恐れがあります。
一つの事件、病気と見えるものも、実は多くのミクロ的な事実、病変組織から成っています。
だから、様々な角度からの捉え方、検討、検証、治療方針が必要になってくる。
それが、できる、ということです。
可能性の選択は、多くのものからの、取捨選択でもあります。
ミクロの意味の連続性からの思考は、裏を返せば、大所高所からのマクロ的思考と通じているんです。
マクロの意味の完成は、ミクロの意味の完成の確認でもあるからです。
多面的なものの見方とは、ミクロ的な思考でもあり、マクロ的な思考でもあるんです。