紫式部と清少納言 源氏物語と枕草子 定子と彰子 基本の知識
紫式部と清少納言についてです。
特に「藤原家と仕えた女房」や「中宮」にご注意を!
紫式部と清少納言
紫式部
紫式部(むらさきしきぶ)
藤原為時(ためとき)の女(むすめ)で、藤原宣孝(のぶたか)に嫁(か)し、第貮三位(だいにさんみ)を産みました。
「源氏物語」を書き始めたのは、夫の宣孝と死別してからで、後に上東門院(一条天皇の中宮彰子)に仕(つか)えます。
女房名は、藤式部から、後に紫式部。
この紫式部という女房名は、源氏物語の「紫の上」と父為時の官位「式部丞」からのものといわれています。
時の有力者である藤原道長ほか、殿上人(てんじょうびと)からも重んぜられます。
※「殿上人」→ 平安京内裏の殿舎で、天皇の常の居所を「清涼殿」といい、その清涼殿に昇ることを「昇殿」といいます。「殿上人」とは、昇殿を許された者のことです。
この「殿上人」に対し、清涼殿に昇殿を許されない官人、家格を「地下(じげ)」、その人を「地下人(じげにん)」といいます。
紫式部は、「紫式部日記」もしるしています。
その日記の中に、清少納言についての記述もみられます。
「清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人」「真名(漢字)書きちらす」などと、けなしています。
紫式部は、女は慎ましいのが良く、才を表にだすなどというのは、はしたないこと、と考えていたようなんですね。
清少納言
清少納言(せいしょうなごん)
清原元輔(もとすけ)の女(むすめ)、清少納言の「清」は、本姓「清原」の略で、「少納言」は、宮中での呼称(こしょう)、呼び名です。
中古三十六歌仙の一に数えられています。
和漢の学に通じ、一条天皇の中宮定子に仕え、寵遇(ちょうぐう)を受けます。
藤原家と仕えた女房
清少納言と紫式部の生きた時代は、藤原氏の力が絶大の時代でした。
一条天皇の御代(みよ)、定子を皇后、彰子を中宮とし、両宮が並立するようになってから、「中宮」は、皇后と同資格の后(きさき)の称となります。
※「后」→ 天皇・王の正室
「妃」→ 天皇・王の側室。また、皇太子・王子の妻。
文学史では、清少納言と紫式部ばかりの話になってしまいがちですが、定子も、彰子も、激動の歴史の中を生きた魅力ある女性です。
「定子」に仕えたのが清少納言です。
「彰子」に仕えたのが紫式部です。
「ショウ」を揃えない、と覚えましょう。(✖ 彰・少)
✖ 彰子 ━━ 清少納言
〇 定子 ━━ 清少納言
〇 彰子 ━━ 紫式部
(下の図解は、スマホを横向きにしてご覧ください。)
女(「蜻蛉日記」の作者)━━━━━ 兼家 ━━━━━━━━━━ 北の方(時姫)
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道綱 道隆 道兼 詮子 道長
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伊周 隆家 定子 ━━ 一条天皇 ━━ 彰子 頼通
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仕えた女房 仕えた女房
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清少納言 紫式部
宰相の君 和泉式部
赤染衛門
源氏物語と枕草子
源氏物語
成立は平安中期 1008年頃
伝奇物語と歌物語の集大成された作り物語。
「もののあはれ」を基調とする。(本居宣長(もとおりのりなが)が、「源氏物語玉の小櫛(おぐし)」で、「源氏物語」の本質を「もののあはれ」としました。)
主人公は、光源氏。
五十四帖から成る。
最終の十帖は光源氏の死後、宇治を舞台とし、薫の悲恋を描き、「宇治十帖」と呼ばれる。
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※「湖月抄」(こげつしょう) → 「源氏物語」の注釈書で、北村季吟(きたむらきぎん)の著、1673年成立。
※「八代集」の一つである「拾遺和歌集」は、「源氏物語」とほぼ同時期に成立しています。
こちらもどうぞ → 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集 三大和歌集の比較 三代集・八代集の覚え方
枕草子
成立は平安中期 1000年以後
三百余段の随筆。
「うつくしきもの」「にくきもの」といった物尽くしや、日記的・随想的な内容から成る。(「物」は類聚・歌枕類聚・日記回想)
※「類聚(るいじゅ・るいじゅう)」とは、同じ種類の事項を集めたもの。類集。
「をかし」を基調。
「清少納言枕草子」、「清少納言記」とも呼ばれます。
鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」とともに、三大随筆と称されます。
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(猪目【いのめ】)
※この記事のアイキャッチ画像は、京都「正寿院」則天の間の猪目窓(いのめまど)です。
とてもきれいですね。
「猪目」は、猪の目に似るところから、そう呼ばれます。
ハート形ですね。
多くの場合、社寺等の建築物の魔除け、招福、火伏(ひぶ)せとして、設(しつら)えます。
「火伏(ひぶ)せ」とは、火災を防ぐ神通力です。