三四郎 夏目漱石 解説 その3
三四郎 夏目漱石 解説 その1 その2に続いての、その3です
その1、その2から続けて読んでくださいね。
「迷える子(ストレイシープ)━━解って?」
三四郎はこう云う場合になると、挨拶に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。
脳内での省略の補い
脳内で、意味を確認する、とは、意味の完成形の確認であり、それは主語と述語の確認です。
それを、わざわざ意識せずとも、できるのと、できないのとでは、読解に差が生じます。
省略の補いは、言葉の補いです。
つまり、主語、あるいは、述語の補いです。
省略を、目に見える「形」で補う
意味の省略を、目に見える「形」で、実際に補ってみましょう。
ここの第一文には、「三四郎は」という主語が記されています。
第二文の述語は、「後悔する」です。この主語は記されていません。
第一文の主語と同じだから、省略されているんです。
意味の流れの理解は、関係性の理解
意味の流れを理解するということは、文と文の関係性を理解するということです。
第一文と第二文の関係性を確認しましょう。
三四郎はこう云う場合になると、挨拶に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。
第二文には、「三四郎」が「挨拶に困」った後のこと、「咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時」のことが記されています。
つまり、「三四郎」=「三四郎」ですから、第一文=第二文なんです。
第一文の内容を、第二文は具体的にわかりやすく書いているんです。
マクロ、ミクロに思考する
全体の理解は、部分の理解です。
マクロという全体の理解は、ミクロという部分の理解です。
マクロは、ミクロから成っているからです。
三四郎はこう云う場合になると、挨拶に困る男である。咄嗟(とっさ)の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。
この二文を「すべて」という視点で、考えてみましょう。
三四郎はこう云う場合になると、挨拶に困る男である。
(三四郎は)咄嗟の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する(男なのである)。
「挨拶に困る」とは?
「挨拶」って、最初に発する言葉ですよね。
「最初」というのは、一番はじめで、「機」です。
ここは、第一文=第二文でした。(第二文は、第一文をわかりやすく書いているんです。)
第二文には、「咄嗟の機」とありますね。
ということは?
「挨拶に困る」とは、「咄嗟」に、何を言っていいのかわからないことです。
「挨拶に困る男」とは、「咄嗟の」対応ができない、返答ができない男、ということです。
マクロ、ミクロは、視点であり、意味の完成の形
上に記したものは、二つの文を「すべて」、「全体」として見て、考えたわけです。
しかし、この二文は、「三四郎」作品という「全体」からすれば、「部分」です。
全体と部分、マクロとミクロ、それぞれの意味は、関係性を持って、完成しています。
それが、一級品の作品です。
「読む」とは、脳内で、マクロ、ミクロの意味の完成を確認する作業です。
マクロ、ミクロの視点を自在に操りましょう。
マクロ(全体)は、ミクロ(部分)から成る
マクロの意味の完成は、ミクロの意味の完成から成ります。
一級品の文章は、意味の連続性があります。
それが、マクロの意味の完成、ミクロの意味の完成ということになります。
漱石の書き方を見ても、それがわかります。