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松尾芭蕉 十八楼の記 笈日記 原文 現代語訳

#古文,#芭蕉

松尾芭蕉 十八楼の記 笈日記

松尾芭蕉は、「笈の小文(おいのこぶみ)」の旅で、岐阜の賀島氏に招かれ、その別邸を「十八楼(じゅうはちろう)」と名付けます。

その謂れを記したものが「十八楼の記」です。

「十八楼の記」は、各務支考(かがみしこう)が編んだ「笈日記(おいにっき)」に収録されています。

「笈日記」は、芭蕉の死の前後の記述がある書です。

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原文

美濃の国長柄川にのぞんで水楼あり。

あるじを賀島といふ。

稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。

田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。

さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。

里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。

暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。

かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。

もしこの楼に名を言はむとならば、十八楼とも言はまほしや。

このあたり目に見ゆるものは皆涼し

原文と現代語訳

美濃の国長柄川にのぞんで水楼あり。

美濃の国、長柄川の岸辺に、川に臨んで建てられた高い建物がある。

あるじを賀島といふ。

(そこの)主人を賀島氏という。

稲葉山うしろに高く、乱山西にかさなりて、近からず遠からず。

背後に(は)稲葉山が高くそびえ、西のほうに(は)高低さまざまの山が重なりあって、(それも)近すぎずも遠すぎもしない(眺めるのに、ちょうどよい距離にある)。

田中の寺は杉のひとむらに隠れ、岸にそふ民家は竹の囲みの緑も深し。

田の中の寺は、ひとかたまりのこんもりした杉林に隠れ、(長柄川の)岸に沿った民家は竹の囲いの緑も深い。(→ 長柄川の岸に沿った民家は、深い緑の竹林に囲まれている。)

さらし布ところどころに引きはへて、右に渡し舟うかぶ。

(河原には)水にさらした(白い)布がところどころに引き延ばして干してあって、右手のほうには渡し船が浮かんでいる。

里人の行きかひしげく、漁村軒をならべて、網をひき釣をたるるおのがさまざまも、ただこの楼をもてなすに似たり。

村人たちの往来は頻繁で、漁村は漁師の家が軒を並べていて、網を引く者、釣り糸を垂れる者、おのおの(それぞれが生活に励んでいる)様子も、ただこの楼(の美しさ)を引き立てているかのようだ。

暮れがたき夏の日も忘るるばかり、入日の影も月にかはりて、波にむすぼるるかがり火の影もやや近く、高欄のもとに鵜飼するなど、まことに目ざましき見ものなりけらし。

(この美しい風景を眺めていると)暮れがたい夏の日も忘れるほどであるが、(やがて)夕日の光も月(の光)にかわって、波にからまったようにちらつく篝火(かがりび)の光も次第に近づいてきて、高楼の手すりのすぐ下で鵜飼が行われるなど、ほんとうに目もみはるほどすばらしい見ものであることだ。

かの瀟湘の八つの眺め、西湖の十のさかひも、涼風一味のうちに思ひこめたり。

あの(中国の、洞庭【どうてい】湖畔の)瀟湘(しょうしょう)八景も、西湖(さいこ)湖畔の十の名勝も、この高楼に吹く涼風の中に、ひとつに溶け込んでいる思いである。

もしこの楼に名を言はむとならば、十八楼とも言はまほしや。

もし、この高楼に名をつけようとするならば、(瀟湘八景と西湖十景を合わせて)十八楼とでも言いたいものであるよ。

〈俳諧〉

このあたり目に見ゆるものは皆涼し

この高楼のあたり、目に見えるものはすべて涼しい眺めであるよ

(季語=「涼し」 季節=夏)

現代語訳

美濃の国、長柄川の岸辺に、川に臨んで建てられた高い建物がある。

(そこの)主人を賀島氏という。

背後に(は)稲葉山が高くそびえ、西のほうに(は)高低さまざまの山が重なりあって、(それも)近すぎずも遠すぎもしない(眺めるのに、ちょうどよい距離にある)。

田の中の寺は、ひとかたまりのこんもりした杉林に隠れ、(長柄川の)岸に沿った民家は竹の囲いの緑も深い。(→ 長柄川の岸に沿った民家は、深い緑の竹林に囲まれている。)

(河原には)水にさらした(白い)布がところどころに引き延ばして干してあって、右手のほうには渡し船が浮かんでいる。

村人たちの往来は頻繁で、漁村は漁師の家が軒を並べていて、網を引く者、釣り糸を垂れる者、おのおの(それぞれが生活に励んでいる)様子も、ただこの楼(の美しさ)を引き立てているかのようだ。

(この美しい風景を眺めていると)暮れがたい夏の日も忘れるほどであるが、(やがて)夕日の光も月(の光)にかわって、波にからまったようにちらつく篝火(かがりび)の光も次第に近づいてきて、高楼の手すりのすぐ下で鵜飼が行われるなど、ほんとうに目もみはるほどすばらしい見ものであることだ。

あの(中国の、洞庭【どうてい】湖畔の)瀟湘(しょうしょう)八景も、西湖(さいこ)湖畔の十の名勝も、この高楼に吹く涼風の中に、ひとつに溶け込んでいる思いである。

もし、この高楼に名をつけようとするならば、(瀟湘八景と西湖十景を合わせて)十八楼とでも言いたいものであるよ。

〈俳諧〉このあたり目に見ゆるものは皆涼し

この高楼のあたり、目に見えるものはすべて涼しい眺めであるよ

(季語=「涼し」 季節=夏)

「雑記帳」#古文,#芭蕉

Posted by 対崎正宏