読解力とは、文章の書き方の理解
読解力の意味
読解力とは、どのようなものなのか。
それは、文章の書き方の理解です。
書き方がわかっていなければ、なんとなくの自己流で読むしかありません。
読む力と書く力は、表裏です。
それらは、なんとなくのものでもなければ、ぼんやりとしたものでもない、明確な力です。
そして、その根本にあるのは、思考の力です。
書き手の意図を思考する
書き方を意識しながら、次の例文を、一緒に読み解いてみましょう。
それは、書き手の意図を思考する、ということです。
〈例文〉
彼は、ああとくやしがった。
使い慣れている言葉の落とし穴
例文で使われている言葉は、みんな、わかりますか?
〈例文〉
彼は、ああとくやしがった。
大丈夫でしょうか?
初めて目にするような言葉はおそらくないでしょう。
しかし、見慣れている言葉、使い慣れている言葉にこそ、落とし穴はあるものです。
言葉は、古語からの流れがある
現代語は、当然のことながら、古語からの流れがあります。
〈例文〉 彼は、ああとくやしがった。
現在の「くやしい」という言葉は、古語の「口惜し」と「悔し」が混同して使われています。
「口惜し」は、期待外れの落胆(らくたん)、不満、嫌悪(けんお)などの意を表します。
「悔し」は、取り返しのつかないことに対して残念である、そして、他者から辱(はずかし)められたり、自分の無力さを思い知らされたりして、腹立たしい、しゃくである、いまいましい、といった意になります。
文は、調和のとれる言葉で成り立っている
「ああ」と「くやしが」るは、調和のとれる言葉と言葉です。
だから、一文として成り立っています。
「やったー」と「くやしが」るでは、調和がとれませんよね。
言葉と言葉の結びつき
もし、「ああ」の部分に、怒りと結びつく言葉が一緒に記されていれば、「くやしがった」の解釈もそれに合わせることになります。
たとえば、「ああ、くそったれ」とでも記されていれば、「くやしが」るは、怒りの意味合いになってきます。
でも、例文で記されているのは、「ああ」という抽象的な言葉だけです。「ああ」という言葉の中に、怒りがあるとも、ないとも、解釈できます。
よって、「彼は、ああとくやしがった」は、「彼は、ああと残念がった」、「彼は、ああと腹を立てた」、どちらの意でも読めます。
一語の理解は、全体の理解につながる
例文は、「彼は、ああと残念がった」、「彼は、ああと腹を立てた」、どちらの意とも解釈できる文です。
その両方の心情がある、とも解釈できます。
そのように読ませているのは、書き手です。
そこに書き手の意図があります。
この文に続く内容は、「残念がる」内容にも書けますし、「腹を立てる」内容にも書けます。またその両方の内容にも。
一語への理解があれば、読む際の予測が可能になります。
それは、書き方の理解でもあります。
その理解は、自分自身が書く上でも、力となります。
一語の理解は、全体の理解につながります。
他者の言葉の理解は、自身の言葉を磨いていきます。
表裏なんです。