現代文〈小説〉の読み方 サンプル
拙著「現代文〈小説〉の読み方」のサンプルです。
縦書きのものを、ここでは横書きにしています。
小説 第1問 問題文
小説 第1問
次の文章は、野間宏の小説「顔の中の赤い月」の一説である。敗戦直後のすさんだ世の中、東京に住む北山年夫と堀川倉子とは同じビルに勤める縁で知り合い、ひかれ合うものを感じた。しかし、倉子は最愛の夫を戦争で失った痛手から立ち直ることができず、年夫は南方の戦地で苦しい行軍のさなかに同僚の中川二等兵を見殺しにせざるをえなかった記憶から逃れることができない。二人は相手の苦しみを理解しながらも、おたがいにそれ以上の深い人間関係を作り出せないでいる。これを読んで後の問い(問1~6)に答えよ。
少しく息づまるような空気が二人の間に生まれていた。北山年夫は、彼の左の吊革にぶらさがっている堀川倉子の姿の中から、何か一種の誘いの空気が流れでているのを感じていた。
「堀川さんとこは、降りてから遠いのでしょう?」と彼はしばらくして言った。
「ええ。」彼女は真直ぐ前を見たまま答えた。
「何分位?」
「十五分程かかりますの。」
「それじゃあ。危険ですね。」
「ええ。」彼女は頸をふった。「この間も、近所の方が襲われましたのよ。でもそのときはパラソルだけですんだんですけど。」
「送りましょうか?」と彼は言った。彼女は黙って答えなかったが、彼は彼女の顔が静かに淋しげに横に動くのを見た。そして二人はまた、互いの心をはなればなれのものにして、立っていた。
目黒、渋谷をすぎ新宿についた。北山年夫は堀川倉子を家まで送りとどけようかどうかと迷いながら彼女と共に中央線のプラットホームまであるいて行った。
「送りましょうか?」と彼は再び言った。が彼女は相変わらず黙っていた。
電車はがらんと空いていたが、二人は入り口のところに向かい合って立っていた。彼は窓から吹き込む風が、彼女の頸の辺り迄たれかかっている髪の毛を、動かしているのを見ていた。そして幾らかに左に傾けた小さな体が、頼りなげな存在を、自分の前にとどめているのをみていた。彼は彼女が遂にはこの敗戦の世を、生ききることができないのを感じていた。『そのうちに食えなくなるのだ……今月から少し給料がよくなるようだが、すべては、食費にいってしまうのだからな……このひとの会社にしても同じことだろう……』そして彼の眼の前の彼女の体が、次第に容積に減じ生命の充溢を失い、どこかへ、粉のようにとびちってしまうかのように想像する。
彼には既に彼女に言うべき言葉がなかった。彼は、自分の口から如何なる言葉が出ようと、それがこの前にいる彼女の心の底にとどくことがないのを感じていた。このひとの中にはたしかに大きな苦しみがあるのだ。そしてその苦しみがこの小さな女を圧倒しおしつぶそうとしているのだ。しかしながら、俺は、この人のその苦しみにふれることができはしない。俺は何一つ彼女のことを知りはしない。俺は俺の苦しみだけを知っているだけで俺の苦しみだけを大事にもっているだけで……ただそれだけで……
北山年夫は堀川倉子が顔を上げて彼の方に眼を向けるのを見た。ほの暗い空間をすかせて白い彼女の顔が彼の前に浮いている。彼は彼女のその顔に真直ぐ眼を据えていた。……この顔の向こうには、たしかに戦争のもたらした苦しみの一つがあると彼は思った。彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった。もしも彼のような人間の中にも、尚、いくらかでも真実とまことが残っているとするならば、それを彼女の苦しみにふれさせたいと思うのだった。……そのように二つの人間の心と心とが面と向かって互いの苦しみを渡し合うことがあるならば、そのように二人の人間が互いの生存の秘密を交換し合うということがあるならば、そのように二人の男と女とが、互いの真実を示し合うということができるならば……それこそ、人生は新しい意味をもつだろう。……しかし、彼にはそのようなことは不可能のことだと思えるのだった。
解説・チェック
これより「解説」です。
〈チェック《そのⅠ》〉
小説 第1問〈解説・チェック〉
〈チェック《そのⅠ》〉
○まずはリード文のキー・ポイントからチェックしていきましょう。
「次の文章は、野間宏の小説「顔の中の赤い月」の一説である。
大舞台 ━ 小舞台 → 時は「敗戦直後」です。
↓ ↓
敗戦直後のすさんだ世の中、東京に住む北山年夫と堀川倉子とは同じビルに勤める縁で知り合い、ひかれ合うものを感じた。
しかし、
「最」=絶対強調(◎強調表現はポイントになる書き方です。→設問【答】になる、と見ます)。
倉子は最愛の夫を
戦争で失った痛手から立ち直ることができず、
年夫は南方の戦地で苦しい行軍のさなかに
同僚の中川二等兵を見殺しにせざるをえなかった記憶から逃れることができない。
二人は相手の苦しみを理解し
ながらも、 作り出すことができないでいる
おたがいにそれ以上の深い人間関係を作り出せないでいる。」
○リード文の舞台説明・状況説明の中で、「戦争」(の意)が頻出しています(「敗戦直後」・「戦地」【頻出語】)。
キー・ポイントが「戦争」であることがわかります(→このポイントを引き継いで、設問【問2】はつくられる、と見るのです)。また「倉子」の箇所では、「夫」が絶対強調の形(「最愛の夫」)で記されています。絶対強調の「夫」と同じ位置にある(つりあっている)のが「戦争」です。(「最愛の夫を戦争で失った」)。この書き方からも、「戦争」がキー・ポイントであることがわかります。
◎「~は」、「~が」という主語のキーに続き、「を」・「に」・「で」は第二のキーの文節をつくります。
◎日本語の文の意味を成り立たせる最低条件は、主語(「~は」・「~が」)と述語です。そこに「を」・「に」・「で」などの形で修飾語が意味を付加するのです。
○リード文のキー・ポイント「戦争」で問2の選択肢をチェックしてみます。
問2 傍線部A「彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった」とあるが、なぜ「苦しみの中にはいって行きたいと思う」のか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。
①おたがいを問いつめて、過去の罪を告白し合うことが、人間としての真実の生き方であると思ったから。
②相手に対する真実の気持ちを語り合うことによって、おたがいの愛情を深めることが必要であると思ったから。
③戦争が残した彼女の心の苦しみを引き受け真実を語り合うことで、新たな生き方を見いだしたいと思ったから。
④二人の男女が生活をともにすることで、戦争がもたらしたおたがいの苦しみを忘れることができると思ったから。
⑤彼女の心の苦しみは本人にしか理解できないが、彼女の生存だけはどうしても守りたいと思ったから。
◎リード文がある場合、リード文のポイント内容は、最初の内容吟味の設問解答時はもちろんのこと、他の設問を解答する際にも、強く意識しましょう。リード文は「過去」だからです、その「過去」があって、本文(「今現在」【問2・問3・問4・問5・問6】)はあります。
〈チェック《そのⅡ》〉
〈チェック《そのⅡ》〉
〈問2解答イメージ〉
リード文
| 本文
↓ (注)危険ですね
A━━(問2)~。~ ~。/……しかし、彼にはそのようなことは不可能のことだと思えるのだった。
○問2の解答イメージは上図のようになります。つまり、リード文の内容から、「しかし」の直前までの内容となります。(「しかし」(逆接)で、傍線部A(彼)の心情が変化(逆転)するからです)。
〈チェック《そのⅢ》〉
〈チェック《そのⅢ》〉
○「注釈の扱い」
書き出しから傍線部Aまでに、「危険ですね」という注釈があります。
◎基本的に、注釈は、設問を解く上で必要であるから記されている、と見ましょう。(→設問を説く上で、注釈の【意味内容の】ポイントを使う。→注釈の【意味内容の】ポイントの語がある選択肢をチェックする、ということです)。
◎特に━━線(今現在)に至るまでの過去の意味内容を記した注釈は要注意です。今回の「危険ですね」がまさにこれにあてはまります。(古文や漢文などにも多いタイプの注釈です)。
○注釈のキー・ポイントとリード文のキー・ポイントを確認してみます。
「(注)危険ですね━━敗戦直後の混乱した社会状況を反映させた言葉。」
||
「敗戦直後のすさんだ世の中」(リード文) ○舞台【状況】説明
荒んだ世の中
敗戦直後の(人々の心も)すさんだ状況下にいる北山年夫と堀川倉子
↓ 心が荒む = 心が苦しい
敗戦直後の北山年夫と堀川倉子の心
相手の心 ||
「(戦争による)相手の苦しみを理解しながらも、
おたがいにそれ以上の深い人間関係を作り出せないでいる」(リード文)
〈チェック《そのⅣ》〉
〈チェック《そのⅣ》〉
○もちろん、本文からも、問2の選択肢において、「戦争」が必要な語であることはわかります。
(ほの暗い空間に浮いて見える彼女の白い顔【=この小説の題名は「顔の中の赤い月」です】)
「その顔」=「指示語+キーワード」=今現在のキー・ポイント内容を示す形です【問1ア】)
彼は彼女のその顔に真直ぐ眼を据えていた。
……(この顔の向こうには、
戦争がもたらした苦しみの一つ
たしかに戦争のもたらした苦しみの一つがある)と彼は思った。
↑
問2 ↑「指示語+キー」(問2) 「たい」 = 願望
彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった。
◎願望にはその(目的)理由があります。
それがここで設問(問2)となっています。
○並列
(そしてまた)
戦地で同僚を見殺しにしてしまったような人間〈リード文内容〉
||例示
もしも彼のような人間の中にも、
尚 、いくらかでも真実とまことが残っているとするならば、
↑
↑ 使役
↑ || 「願望」
それを彼女の苦しみにふれさせたいと思うのだった。……
(なぜなら) ○前二文の「願望」の理由が記されていきます。
そのように二つの人間の心と心とが面と向かって互いの苦しみを渡し合うことが
あるならば、 ○仮定・反復(繰り返し)法
◎強調表現は、設問【答】になります。
そのように、「二人の人間が互いの生存の秘密を交換し合う」ということが
あるならば、 ○仮定・反復(繰り返し)法(強調表現は、設問【答】になります)
そのように「二人の男と女とが、互いの真実を示し合う」ということが
できるならば…… ◎同じ位置の語(同じ文の成分の語)は、その根本の意味を同じにします。
↑ ◎省略は自分で補いましょう。(ポイントが見えてきます)
↑○「指示語」(→問2)
それこそ、(二人の)人生は新しい意味をもつだろう(と彼は思うからだった)。
○「こそ」=強調(→「それ(=指示語)」の指し示す内容を強調→問2)
◎強調内容はポイントになります。→設問・答になる、と見ましょう。
○逆接(心情変化【思】)がありますから、問2はこれより前で解答します。
↓
/……しかし、彼には(そのようなことは不可能のことだ)と思えるのだった。
問2 傍線部A「彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった」とあるが、なぜ「苦しみの中にはいって行きたいと思う」のか。
○傍線部A「彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった。」この一文のキーをチェックします → 述語は「思うのだった」です。それに対しての主語は「彼は」です。設問文(傍線部)にその「彼は」は記されていますから、解答に「彼は」という主語(文字)は、いりません。(省略できます)。
傍線部A「彼は如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思うのだった」
○「指示語+キー」の形で、「彼女のその苦しみの中」とあります。この「指示語+キー」の内容(=
「戦争のもたらした彼女の苦しみ」)は解答に必要ということです。
◎「指示語+キー」の形は、今現在のキー・ポイントを示す形です。
◎キー・ポイントが必ず問題となり、答となります。
「彼女のその苦しみの中」=「戦争のもたらした彼女の苦しみの中」
↓
戦争がもたらした彼女の苦しみの中
◎主体を示す「の」→「が」への書きかえ(この書きかえは、本文から選択肢の間でよくおこなわれます)。
③戦争が残した彼女の心の苦しみを引き受け真実を語り合うことで、新たな生き方を見いだしたいと思ったから。
④二人の男女が生活をともにすることで、戦争がもたらしたおたがいの苦しみを忘れることができると思ったから。
⑤彼女の心の苦しみは本人にしか理解できないが、彼女の生存だけはどうしても守りたいと思ったから。
〈チェック《そのⅤ》〉
〈チェック《そのⅤ》〉
◎仮定・反復(繰り返し)法による強調効果
◎同じ位置にある語はその根本の意を同じにします。
○「彼」が「如何にしても、彼女のその苦しみの中にはいって行きたいと思う」と「もしも彼のような人間
の中にも、尚、いくらかでも真実とまことが残っているとするならば、それを彼女の苦しみにふれさせたいと思う」は、同じ位置にあります。どちらも彼の願望ですが、後者には「使役」があるので、「ふれ」るのは、「彼女(の苦しみ)」の動作となります。つまり前者は彼の動作、後者は彼女の動作となります。ですから、直後の理由説明では、「そのように、二つの人間の心と心とが~渡し合う」、「そのように、二人の人間が~交換し合う」、「そのように二人の男と女とが~示し合う」というように「二人」の「~合う」という書き方になっています。そして「~ならば」と条件が叶えば、その結果として「それこそ、人生は新しい意味をもつだろう」と記されます。傍線部Aの文とその直後の文(「もしも彼のような~ふれさせたいと思うのだった。」)からみれば、これらは(目的)理由です。(本文には「なぜなら」と補えました)。よって、「新しい意味をもつ」「人生」は、彼女が関わっての二人の「人生」になります。
「彼女のその苦しみの中にはいって行」くこと
↓ 「渡し合う」
↓ 「交換し合う」
↓ 「示し合う」 「で」=手段・方法
③戦争が残した彼女の心の苦しみを引き受け真実を語り合うことで、
新たな彼女との生き方を
新しい二人の生き方を
新たに彼女と二人の人生を
彼女との新しい自分の人生を
新たな生き方を
願望
見いだしたいと(彼は)思ったから。
〈チェック《そのⅥ》〉
〈チェック《そのⅥ》〉
◎ポイントと具体例という関係性は、立ち位置によって変わります。これと同じく、原因理由(手段方法・ 条件)と結果という関係性も、立ち位置(見る立場)によって変わります。
〈イメージ図〉「因縁」=「直接的原因と間接的条件」
A━━。原因 原因
B━━。 結果 原因
C━━。 結果
Cという結果の直接の原因はBでも、Bを結果と見れば、その原因はAです。Cから見れば、BもAも原因です。時間の流れの中で、人との関わり、縁(間接的条件)、間接的要因があるため、このようになります。人間は時の流れと、関係性の中で生きています。小説には人間が書かれているのです。
○選択肢③の「戦争が残した彼女の心の苦しみを引き受け真実を語り合うことで」の「で」は手段方法です。それに対して、「新たな生き方を見いだ」すことは結果になりますから、「新たな生き方を見いだ」す中には、「彼女」が存在します。彼の「新たな生き方」の中に、「彼女」が関わってくるということです。つまり「彼女」と二人の「新たな生き方」、人生です。(因果関係は表裏一体の関係です。「原因」の中の要素は必ず「結果」に反映されます。「原因」の中にない要素が、「結果」に生じることはありません)。
〈問2・解答〉③
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