論理的な思考の壁は、わかったつもり
わかったつもりという思考の壁
日本語による論理的な思考の大きな壁は、わかったつもりという思いこみで、それは、一面的な理解です。
たとえば、本当は、「円柱」であるのに、「円」だと思ったところで、思考を働かせることをやめてしまう。
それでは、「円柱」は、ずっと「円」のままです。
「円柱」は生きません。
「円柱」は、本来、円柱自身が持っている力を、人間に生かしてもらえません。
論理的な思考をしていないからです。
論理的な思考に至っていないということなんです。
思考の壁があるわけです。
それが、わかったつもりです。言いかえれば、一面的な理解です。
論理的な思考の壁は、自分自身がつくっている
わかったつもりは、言葉の持つ力を、脳内で生かせていない状態です。
言葉の持つ力を生かせていないとうことは、思考が生きていないということで、自分自身を生かせていないということでもあります。
論理的な思考の壁は、自分自身でつくっている壁なんです。
言葉を扱う力が、思考の力になる
わかったつもり、一面的な理解は、ミクロ、マクロの意味の連続性が完成していないことに自分で気づけないところに問題があります。
では、どうすればいいのか?
論理的な言葉の扱い方を身につけることです。
論理的な言葉の扱い方を身につけるということは、論理的な思考の力が身につくということです。
「類推」「予測」
論理的な思考が身につけば、「類推」、「予測」ができるようになります。
論理的な思考の力を持っていたら、「円」と捉えたところで、思考を止めずに、「円柱」を類推することができます。
「円」と「円柱」には、意味の連続性があるからです。
論理の基本は、拙著「大人の読む力」で記したように、破綻のない意味から意味の連続性を思考していくことです。
日本語は、論理の力で生きる
母語という言葉、私たちの日本語は、論理の力で生きます。
論理によって、言葉が生きるということは、論理的な言葉の扱い方をする自分自身が生きるということです。
論理的思考の力を身につけるには、外国語よりも、母語のほうが適しているのは、誰の目にも明らかでしょう。
論理的な思考の力は、日本語という母語で磨いていきましょう。
その力は、日常で、仕事で、発揮されることになるはずです。