他者の言葉を理解できずに思考は磨けない   

大人の「読む力」 「『読む力』とは、他者の言葉を客観的に理解する力」を一緒にご確認ください

拙著「大人の『読む力』」の原形です。

本来、あるべき姿です。

正確な意味をご確認ください。

「読む力」とは、他者の言葉を客観的に理解する力

辞書を開いてもわかるように、言葉には意味の幅があります。

文章において、その意味の幅を狭(せば)めたり、広げたりするのが書き方です。

それをするのは書き手です。読み手ではありません。

言葉が集まった文章には書き手独特の意味・内容が生まれています。

それを読み手は読み取るわけです。

言葉はみな、最初、他者の言葉なのです。

自身のものではない。

読むとは、まず他者の言葉を受けとめる行為です。

書き方という形(かたち)が変われば、意味・内容が変わります。

文章という形は、書き手の言葉の扱い方の表れです。

それが書き手の思考の形です。

文章を読む、理解しようとすることは、書き手という他者の存在を認識することであり、書き手という他者への敬意を持つことでもあります。

それが読み方、客観的という読み方です。

主観を前面に出しての読み方、我流で読むしかないのは、その読み方しか知らないからです。

主観による読み方は、他者への敬意も生まれにくいものです。

だから、記されている文字を大切に見ない。

文章を読む際、深く思考する際に、まず意識すべきは、スタンスなのです。

謙虚に目を向けるということなのです。

客観的という読み方は、書かれている内容をただ鵜呑(うの)みにすることではありません。それでは、たんに知識を得るため、受け売りをするための読み方になってしまう。

読むとは、おもねることでも、斜(しゃ)に構えることでもないのです。

そこには、客観的、という自身の思考が働いていなければならない。

そう、客観的とは思考なのです。

書き手という他者の考えを受けとめる、書いてあるままに内容を読み取る。それが正確な理解です。

しかし、これには相当な力がいります。

なにしろ、目の前に記されている言葉の意味がすべてわからないといけない。そこから生み出される言葉の意味に気づかないといけない。省略されている言葉の意味があることにも気づけないといけない。

書いてあるままに内容を読み取る、というのは、ただ一生懸命に読めばいいというものではないのです。

意図的に意味・内容を壊した芸術作品というものも存在します。それを除いても、ある文章を読んで、その感想はいろいろあっていいし、あるのが当然です。

しかし、それもあるレベルに達してのものでありたい。  

目の前の文章のあるがままの理解、書き手の思考、他者の存在の尊重です。

以上が、「『読む力』とは、他者の言葉を客観的に理解する力」の原形であり、本来あるべき内容です。

「読む力」がなければ、「書く力」もない

文章はとにかく削ればいいと思っている人がけっこういるようです。

なんとなくの日本語は、学校も、社会も、まったく同じであると、つくづく感じます。

「読む力」がなければ、「書く力」もない。

ただ削ればいいわけがない。

それで「要約」も、できるわけがない。

「読む」という行為の根本は、他者の言葉を受けとめ、理解しようと努める行為です。

それは、自らの努力です。

2021年6月2日「大人の『読む力』」の原形

Posted by 対崎正宏