文章とは、他者の言葉
「読む」スタンスとして
読解とは、他者の言葉を理解すること
読解とは、目の前の文章を理解することです。
目の前の文章、それは、他者の言葉です。
文章読解では、言葉を補う、という作業も必要になってきますよね。
補う言葉は、書き手が記している言葉から導きます。
なにしろ、目の前の文章は、書き手が記したものですから。
でも、この作業が、なかなか、できない人が多いんですね。
そもそも、言葉の補いは、目の前に存在している文章、他者の言葉を、理解するために行うものです。
他者の言葉を壊すために行うものではありません。
自分勝手な補いは、他者の言葉を壊す行為です。
目の前の文章、目の前の書き方から、言葉の補いをしないと、自分の頭の中の思考をくりかえすことになります。
この行為は、どうしても、「我」を強くします。
他者の言葉、他者の思考を理解することができないからです。
他者の考えの理解は、他者への敬意でもある
文章読解とは、自分とは異なる他者の考えの理解です。
それは、他者への敬意でもあります。
自分勝手な解釈は、他者の考えを壊してしまうわけで、他者への敬意ある行いとは、いえません。
それは、なにも、他者の言いなりになるということでもなければ、その考えに百パーセント賛同しなければいけないということでもありません。
理解です。
それは、尊重なんです。
人は、敬意がなければ、目が曇るものなのです。
理解の先に、自身の思考が始まる
理解とは、自分で考えるための前段階の作業です。
自分とは異なる他者の考えを理解することによって、それまで見えていなかったものが見えるようになります。
それが、負の面であろうとも。
自身と異なるもの、自分の持っていないものは、思考の糧になります。
世界は、自分自身だけで成り立っているわけではありません。
他者の言葉、その考えを、理解してこそ、世界観も広がります。
他者の言葉の理解の先に、自身の思考が始まるんです。
文章とは、他者の言葉なのです。