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正岡子規 辞世の句 三句を読む 糸瓜(へちま)の水

#人生,#俳句

鳴いて血を吐くホトトギス

(この記事のアイキャッチ画像は、へちまの花です。)

鳥の「ホトトギス」を漢字で書けば、「子規」、「時鳥」、「不如帰」等等。

正岡子規(まさおかしき)の「子規」とは、俳号(はいごう)で、「ホトトギス」の意です。

本名は「常規(つねのり)」、幼名は「升(のぼる)」です。

(俳号とは、俳諧の作者が用いる雅号です。雅号【がごう】とは、風雅な別名です。)

「鳴いて血を吐くホトトギス」

「ホトトギス」は「テッペンカケタカ」と鋭い声で鳴きます。

それは、喉から血を吐くようだともいわれます。

正岡子規は結核を患い、二十二歳のとき、初めて、血を吐きました。

一週間ほど、吐き続けたようです。(一回につき、約五勺【およそ0.09リットル】とのこと。)

 子規は、初めて喀血した夜、「ホトトギス」の句を、四、五十句、つくります。

卯(う)の花が散るまで鳴くか子規(ほととぎす)

卯の花をめがけてきたか時鳥(ほととぎす)

「卯の花」とは、「ウツギ」の花のことで、その色は、白色です。(惣菜の「おから」を「卯の花」と称するのも、その白い色からきています。)

 正岡子規がつくった上記の句には、「血」という文字もなければ、「赤」、「色」という文字もありません。

 しかし、「卯の花」と、ホトトギス、「子規」、「時鳥」という文字が、花の白、血の赤という鮮烈な色のコントラストを浮かび上がらせます。

 喀血(かっけつ)した正岡子規は、自身を「ホトトギス」にみたて、「子規」を俳号としたのです。

(子規が主宰(しゅさい)し、柳原極堂、高浜虚子らが編集した俳句雑誌名は「ホトトギス」です。)

獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)

 正岡子規は、多くの雅号(俳号)を用いました。

「竹の里人」、「常規凡夫」、「丈鬼」、「獺祭漁夫」、「漱石」等等。

 正岡子規がしるした「筆まかせ」には、「漱石とは高慢なるよりつけたるものか」とあります。

 そして、「漱石は今友人の仮名と変ゼリ」と。

 この「友人」とは、夏目金之助(漱石)のことです。

 子規は、自身の居を「獺祭書屋」と称します。

 そして、彼は、「獺祭書屋主人(だっさいしょおくしゅじん)」という俳号も使っています。

「獺」とは、「カワウソ」です。

 カワウソは、獲物を食べる前に、川岸に並べる習性があるんです。

 その様子を、あたかも「祭」のようだとしたのが「獺祭(だっさい)」という言葉です。

「獺祭」は、そこから転じて、詩文をつくる際、多くの書物を並べひろげる意ともなっています。

 子規が、居を「獺祭書屋」とし、自らを「獺祭書屋主人」と号したのも、その意からです。

 ちなみに、子規が俳句について論じたのが、「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」です。

平静に死ぬということ

 正岡子規は、三十五歳でこの世を去っています。

 なんという濃密な人生であったかなどとは、口が裂(さ)けてもいえません。

 子規は、三十歳で、床(とこ)から離れられない生活となります。

 地獄の苦しみの中、子規は生き、逝(い)きました。

「誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか。誰かこの苦を助けて呉れるものはあるまいか」

 これは、子規の著、「病牀六尺」の中の言葉です。

 原文では、この二文の文字すべてに、傍点(ぼうてん【﹅】)が付されています。

 傍点を付したのは子規本人です。

 子規は、結核と、それにより引き起こされた脊椎(せきつい)カリエスの苦しみから、何度も、自ら、命を絶とうとします。

 自死を思いとどまったのは、看病してくれている母と妹の存在でした。

(脊椎カリエスは、膿が局所に溜まり、また流注膿瘍【りゅうちゅうのうよう】をつくり、圧痛、神経痛、運動麻痺などが伴います。)

 病を知らぬ人間は、平静に生きることを考えるものです。

 しかし、死の病を抱(かか)える子規は違ったのです。

 平静に死ぬことを考えた。

 いつでも平静に死ねることを。

 正岡子規という人間を、僕が尊敬するのは、その生き方、死に方にあります。 

 病床の子規にとっての、生きることは、死ぬことで、生き方とは、死に方そのものだったのです。

 

 死んだ子規の身体を清めようとした母や妹は、彼の腰や背に這(は)いまわる蛆(うじ)を見ることになります。

 子規の死が壮絶だったのは、彼の生が、命が、そうであったからです。

 子規は、最期の最期まで、壮絶に生きたのです。

絶筆三句

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

をととひのへちまの水も取らざりき

 痰(たん)の除去は、生きる者にとって必要なことです。

 それができなければ、窒息の恐れも、感染症、肺炎の恐れもあります。死につながるわけです。

 症状の重い病人や、認知症の高齢者などは、自力で唾液を飲み込むことも、痰を吐き出すことも難しくなっていきます。

 現代においては、医師や看護師ばかりでなく、病人や老人を介護する者も、器械を使って、喀痰(かくたん)の吸引をすることが、条件付きで認められています。

 子規の時代に、痰の吸引の器械など、もちろんありません。

 痰を切るのに、有効なものとして、糸瓜(へちま)の水があったのです。

 糸瓜の水は、その茎(くき)からとりました。 

子規が死ぬのは、九月十九日の未明です。

絶筆三句は、十八日に書かれました。

糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

子規は、まずこの句をつくります。

子規の家の庭には、糸瓜が植えられていました。

「糸瓜」の花が「咲(い)て」いたのです。

子規は、板に貼り付けられた紙に、仰向けのまま書きました。

「痰」が「つま」っていたのです。

 切れなくなっていたのです。

 庭に「咲」く「糸瓜」の花を見ながら、子規は死を自覚したのでしょう。自らを「仏」とします。

 切れ字の「かな」が、「仏」という語を強調しています、などという、そんなくだらない技術論など、ふきとばす静かなもの凄さが、子規の句にはあります。

痰一斗糸瓜の水も間にあはず

 子規は、次にこの句をつくります。 

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」を忘れないでください。この意味が生きて、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」はあります。

 死の床の子規は、とても、痰が切れるような状態ではありません。

 それを「痰一斗」と記したのです。

「一斗」とは、一升の十倍です、18.039リットル。

 一升瓶、10本分の「痰」。

 ありえないでしょう?

 大袈裟(おおげさ)にも、程(ほど)があります。

 そうです、子規は、おどけているんです。

 ふざけているんです。(「誇張法(こちょうほう)」です。)

「痰」が「一斗」も出ては、どんなに「糸瓜の水」を飲んでも「間にあは」ない、(役に立たない)と。

 子規は、生きている世界の人人を、僕たちを、笑わせようとしているんです。

 死を目前にしての、諧謔(かいぎゃく)。 

 平静に死のうとする子規の凄さです。

(諧謔とは、おもしろい気のきいた言葉です。ユーモアです。)

をととひのへちまの水も取らざりき

 子規の辞世の句です。

「へちまの水」は痰を切る効用があるわけですが、特に十五夜に、それを「取」るのが良いとされていました。

 前述したように、絶筆三句が記されたのは、九月十八日です。

「をととひ」(一昨日)が、十五夜だったのです。

 しかし、「へちまの水」を「取ら」なかった。

 忘れたのです。

 え? 大事な十五夜の「へちまの水」を「取」り忘れるのはおかしい?

 いえ、いえ、事実、「をとといのへちまの水」は「取ら」なかったのです。

 それを、子規は、平然と、句にしたのです。

 前の二句があって、この句があるのです。

一句から続けて、三句目を確認してみましょう

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」、そして「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」を受けて、「をととひのへちまの水取らざりき」はあります。

 三句目の「」に注意してください。

「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」、「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」、「をととひのへちまの水取らざりき」

 三句目の「」は、二句目の「糸瓜の水」と並んでいます。

 一句目、二句目は、「糸瓜」という漢字で記していますね。

 それに対し、三句目は、ひらがな書きで「へちま」です。

 三句目の「へちま」は、強調されているのです。

 ひらがな書きには、強調効果があります。

 三句目の「へちまの水」は、特別な「へちまの水」なのです。

 十五夜の「へちまの水」だからです。

 子規は、一句目で、自らを「仏」と達観(たっかん)し、二句目で、諧謔(かいぎゃく)、ユーモアを示しました。

 つまり、「をととひのへちまの水も取らざりき」には、一句目の達観(たっかん)と、二句目の諧謔、ユーモアが生きているのです。

 達観とは、何事にも動じない心境です。

 三句目の達観と諧謔、ユーモア

「痰」が「一斗」も出てしまっては、「糸瓜の水」も「間にあは」ない(役に立たない)、「をととひの(十五夜の、特に効用のある)へちまの水取ら」なかった。忘れてしまった。

 死ぬほど苦しいのに、大事な、特別な、十五夜の「へちまの水」を「取」るのを、うっかり忘れてしまった。

 そこに、諧謔(かいぎゃく)、ユーモアが生きているのです。 

 達観した子規は、あくまでも明るく、ユーモアをまじえて言っているのです。

 大事な、十五夜の「へちまの水も取」り忘れるとは、これは、どうやら、いよいよ、俺も、運の尽きだな(笑)。という具合。

 平静に死のうとする子規のもの凄さです。

「運」とは、「命」であり、「生」です。 

 生きていること自体が、「運」です。

 人は、生き、生かされています。 

2022年6月9日「雑記帳」#人生,#俳句

Posted by 対崎正宏