閑さや岩にしみ入る蝉の声 場所と解説 「奥の細道 立石寺」現代語訳
閑さや岩にしみ入る蝉の声 意味
閑さや岩にしみ入る蝉の声(しずかさやいわにしみいるせみのこえ) 松尾芭蕉(まつおばしょう)
この句がつくられた場所は、山形の「立石寺(りっしゃくじ)」。
「山寺」は、「立石寺」の俗称です。
意味
周囲の岩々にしみ入っていく蝉の声が、山寺の閑さを一層深めている。心は静かに澄みゆくばかりである。
季語は「蝉の声」で、季節は「夏」。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、山形の立石寺参詣の折の句です。
「奥の細道」所収です。
「奥の細道『立石寺』」を読んだ上で、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を味わってみましょう。
紀行文「奥の細道『立石寺』」 原文
山形領に立石寺(りゅうしゃくじ)といふ山寺あり。
慈覚大師の開基にして、ことに静閑の地なり。
一見すべきよし、人々のすすむるに依て、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。
日いまだ暮れず。
ふもとの坊に宿かりおきて、山上の堂に登る。
岩に巌(いはを)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(としふり)、土石老いて苔(こけ)なめらかに、岩上(がんしよう)の院々扉を閉て物の音聞こえず。
岸を巡り岩を這て仏閣を拝し佳景(かけい)寂寞(じゃくまく)として心すみゆくのみ覚ゆ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
紀行文「奥の細道『立石寺』」 現代語訳
山形領に立石寺という山寺がある。
慈覚大師の開山(かいさん)で、とりわけ(俗事から離れ)清く静かな地である。
(立石寺を)一度、見るのがよいこと、人々が(そう)勧めるので、(私【たち】は)尾花沢から取って返し、その間(かん【尾花沢から立石寺の距離】)、七里ほどである。
(立石寺に到着、)日はまだ暮れていない。
麓(ふもと)の僧坊に宿を借りておいて、山上の堂にのぼる。
岩に巌(いわお)を重ねて山とし、(ここの)松や柏は歳月を経て老木となり、(ここの)土石は古びて苔もなめらかで、岩の上の寺の建物はみな扉を閉めていて、物のたてる音は聞こえない。
崖(がけ)を巡り岩を這って、仏堂を拝み、佳景(かけい)は寂寞(じゃくまく)にして、心が澄みゆくのを覚えるばかりである。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(できるだけ、原文に合わせて訳しています。)
紀行文「奥の細道『立石寺』 語句の説明
○「山」とは、「寺」の意です。
「開基」=「開山」= 寺院の創立
○「奥の細道」の旅には、河合曾良(かわいそら)が随伴しています。
○「僧坊」= 僧や尼が起居する寺院付属の家屋
○「松・柏(しょう・はく)」= 松や柏の木
「柏」とは、ヒノキ・サワラ・コノテガシワなどの常緑樹のことで、これを古来、「かしわ」と訓(よ)みならわしていました。
※「訓む」とは、漢字に国語をあててよむことです。つまりは、訓読みのこと。
○「佳景」とは、佳い景色のこと。すばらしい景色のこと。
○「寂寞(じゃくまく・せきばく)」とは、ものさびしくひっそりとしていること。
※「閑寂(かんじゃく)」は、「寂(さび)」であり、これは「蕉風」の理念のひとつです。
蕉風の理念、「わび」「さび」「しおり」「ほそみ」等についてはこちらをどうぞ→ 芭蕉の作品と「俳句」と「発句」と「俳諧の連歌」の基礎知識 「芭蕉の俳諧理念」の項で、簡単に記しています。
閑さや岩にしみ入る蝉の声 解説
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」は、すんなりと、できあがったわけではありません。
初案はこれです
「山寺や石にしみつく蝉の声」
(「俳諧書留」に所収)
そうして次にこれ
「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」
(「初蝉」に所収)
「山寺や岩にしみつく蝉の声」「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」によって、「閑さや岩にしみ入る蝉の声」の内容がより鮮明になります。
三つの句に、文字の違いはあれど、その中身、芭蕉が表現しようとしたものは同じだからです。
芭蕉が表現したかったもの、それは「寂(さび)」。
「閑寂(かんじゃく)」です。
「や」という「切れ字」
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
この句には、切れ字の「や」があります。
切れ字は、世界(意味)をつくります。
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という句の世界(意味)は、「閑さ」です。
初案から成案までの「や」という「切れ字」から、「世界(意味)」を確認してみましょう。
「山寺や石にしみつく蝉の声」
「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
「山寺や」 → 「寂しさや」 → 「閑さや」
これは、「山寺」=「寂しさ」=「閑さ」ということです。
「山寺」の世界は、「寂し」く、「閑(しずか)」な世界なのです。
芭蕉がこの句で訴えたかった最たる意味、世界です。
「蝉の声」
「山寺や石にしみつく蝉の声」
「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
初案から成案の三つの句はすべて、「蝉の声」という体言で止められています。
「蝉の声」が強調されているんですね。
実際、「蝉」は鳴いているんです。
この「蝉の声」は、「世界」の中にあります。
「閑寂の山寺」という「世界」の中に。
「閑寂の山寺」という「世界」は、芭蕉の思考・心が、つくりだしている「世界」です。
別角度からいえば、この「世界」は、「山寺」が芭蕉につくりださせている「世界」です。
芭蕉の心は、「山寺」によって、澄んでいます。
「閑寂」の心。
岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉て物の音聞こえず。
岸を巡り岩を這て仏閣を拝し佳景寂寞として心すみゆくのみ覚ゆ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
「蝉」は鳴いています。
芭蕉は、その「蝉の声」をたしかに聞いています。
しかし、「閑(しずか)」である。
「閑さや」という世界は、芭蕉の澄んだ心なんです。
「岩にしみ入る」
実際の周囲の世界は、「岩」です。
「岩に巌を重ねて」います。
「閑さや」という世界は、芭蕉の澄んだ心の「世界」です。
つまり、芭蕉の心は、実際の「世界」と一体化しているんです。
だから、芭蕉がたしかに聞いてはいる「蝉の声」も「岩にしみ入る」。
一体化する。
境界がない。
「閑さや」の「世界」は、「岩」から成る「山寺」であり、その「閑寂」であり、芭蕉の澄んだ心です。
「山寺や石にしみつく蝉の声」=「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」=「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
「世界」 = 「山寺」 = 「寂しさ」 = 「閑さ」 = 芭蕉の澄んだ心
「しみいる」 si/mi/i/る
さらに、芭蕉のブラッシュアップを確認します。
「音(おん)」です。
「山寺や石にしみつく蝉の声」
「寂しさや岩にしみ込む蝉の声」
「閑さや岩にしみ入る蝉の声」
「しみつく」→「しみ込む」→「しみ入る」
なぜ、芭蕉は、最終的に「しみ入る」を選んだのか。
これも、「世界」の一体化のためでしょう。
境界をつくらない。
「音」の凸凹(でこぼこ)をつくらないんです。
「しみつく」=「しみ」+「つく」
「しみ込む」=「しみ」+「こむ」
「しみ入る」=「しみ」+「いる」
「しみ」は共通していますね。
みな、動詞ですから、語尾は、ウ段です →「(しみつ)く」「(しみこ)む」「(しみい)る」」→「く」「む」「る」→ ウ段
違いは、「しみ」と接続する「音」です。
「しみ・つく」では「つ」、「しみ・こむ」では「こ」、「しみ・いる」では「い」です。
「つ」はウ段、「こ」はオ段、「い」はイ段。
「しみ」の、「し」・「み」は、イ段・イ段です。
イ段で続けられるのは、「いる」の「い」です。
「し・み・い」る。
「イ段・イ段・イ段」ウ段。
(「し・み・つ」く →「イ段・イ段・ウ段」ウ段
「し・み・こ」む →「イ段・イ段・オ段」ウ段)
同音が続くほうが、「一体化」を表しやすい。
短歌においても、発句、俳句においても、音の響きがもたらす効果は大きいんです。
崖を巡り岩を這て仏閣を拝し佳景寂寞として心澄みゆくのみ覚ゆ 閑さや岩にしみ入る蝉の声
原文
岩に巌を重ねて山とし、松柏年旧、土石老いて苔なめらかに、岩上の院々扉を閉て物の音聞こえず。
岸を巡り岩を這て仏閣を拝し佳景寂寞として心すみゆくのみ覚ゆ。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
(ここでは、前述の「現代語訳」よりも語調を整えて訳しています。語調とは「音(おん)」です。)
岩に巌を重ね山とし、松柏は歳月経て老木に、土石は古び苔なめらかに、岩上の寺院はみな扉を閉じ、物音聞こえず。
崖を巡り岩を這い、仏堂を拝み、佳景は寂寞とし、心澄みゆくのを覚えるばかり。
閑さや岩にしみ入る蝉の声
芭蕉、山形領立石寺参詣の折の句です。