夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉 「奥の細道」平泉 俳句 前書からの読解
夏草や兵どもが夢の跡(なつくさやつわものどもがゆめのあと) 現代語訳 意味
現代語訳 意味
高館(たかだち)に登って、辺りを眺めると、義経たちが戦ったのも、藤原氏が栄華を極めたのも、夢のまた夢、その跡には、今ただ夏草が生い茂るばかりである。
前書(まえがき)「奥州高館(おうしゅう‐たかだち)にて」
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡
この句には、「奥州高館にて」という前書(まえがき)があります。
俳句の「前書」とは、句の前に添えることばです。
多くの場合、俳句をつくった地名が記されたり、俳句をつくった動機、生活背景が記されたりします。
他愛のないメモのような前書もあります。
注意すべきは、前書を含めて「完全体」となっている俳句です。
夏草や兵どもが夢の跡は、そんな俳句の一つです。
「奥州高館にて」という前書には、「歴史」という意味があります。
夏草や兵どもが夢の跡は、前書もあわせて、鑑賞、読解しましょう。
「奥州高館」は、源義経の最期の場所です。
奥州(おうしゅう)
「奥州(おうしゅう)」とは、「陸奥(むつ)」の別称(べっしょう)で、その古い呼び名は「みちのく」です。
「みちのく」とは、「みちのおく」の略で、漢字で記せば、やはり「陸奥」です。
「奥州」=「陸奥」は、磐城、岩代、陸前、陸中、陸奥の五つのくにから成りました。
「州」は、「くに」の意なのです。
※「九州」が、かつて、九つの「くに」から成っていたのもわかりますよね。
(九州は、筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩から成りました。)
高館(たかだち)
「高館(たかだち)」は、(岩手県)平泉の衣川の南にあった城館で、藤原秀衡(ふじわらのひでひら)が源義経のために築きました。
平泉文化といわれるように、奥州藤原氏は、三代にわたって、奥州で力を誇ります
奥州藤原三代とは、清衡、基衡、秀衡のことです。
奥州藤原氏は、秀衡の代で、栄華を極めます。
源義経は、その秀衡によって、二度、匿(かくま)われるわけです。
一度目は、平治の乱の後、そして二度目は、頼朝との不和の後。
秀衡は、遺言でも、義経を庇護(ひご)するように、とします。
しかし、息子の藤原泰衡(やすひら)は、源頼朝の圧力に負けるんですね。
結果、義経を攻め、自刃(じじん)に追い込みます。
義経が自刃するのが(自刃したとされているのが)、「高館(たかだち)」です。
「高館」の別名は、「判官館(ほうがんだち)」、「衣川館(ころもがわのたて)」です。
「義経記(ぎけいき)」は、鎌倉幕府が滅んですぐの室町時代初期の作品です。
義経の人気の高さがうかがえます。
義経は、木曾義仲を討ち、平氏を一谷、屋島、壇ノ浦で破りました。
義経人気は、単なる戦上手であったからではなく、その最期が悲劇的であったからです。ごく身近な兄に、権力に、殺されたからです。その人生が、美しくも儚(はかな)かったからです。
義経は、まさに悲劇のヒーローでした。
だからこそ、伝説ともなりました。
弁慶と一緒に、蝦夷で生きている、いや、大陸で生きている、と。
「判官贔屓(ほうがんびいき」)という言葉が、義経から生まれたのは、みなさん、ご存じのはず。
しかしながら、義経死後、藤原泰衡と源頼朝との和平は成りませんでした。
頼朝は、奥州に藤原氏がいることを、どうしても許せなかったんですね。幕府を脅(おびや)かす存在と捉えていたわけです。
頼朝は奥州に攻め入ります。
そうして、奥州藤原氏は滅びました。
松尾芭蕉は、そんな奥州藤原氏と源義経についての知識を持っていました。
その上で、つくったのが、夏草や兵どもが夢の跡、という句です。
この句は、俳諧紀行「奥の細道」の中にあります。
俳諧紀行とは、いわゆる紀行文のことで、旅の出来事、感想などを記したものです。
日本においての紀行文は、短歌や俳句や漢詩などを一緒に記したものが多く、芭蕉の「奥の細道」もその一つです。
(芭蕉は、西行が平泉を訪れたことも知っています。
芭蕉は、西行のことが好きでした。
僕も、西行を敬愛しています。
でも、今回、西行については、記事が長くなってしまうので、触れないことにします。)
芭蕉の奥の細道のルートと与謝蕪村の句 → 五月雨や大河を前に家二軒 五月雨をあつめて早し最上川
奥の細道 末の松山 原文と現代語訳 (幸若舞 敦盛「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻のごとくなり」にも触れています)
「奥の細道」(平泉) 原文
三代の栄耀(えいよう)一睡(いっすい)の中(うち)にして、大門の跡は一里こなたに有(あり)。
秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。
先(まず)、高館にのぼれば、北上川南部より流るる大河也(なり)。
衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入(おちいる)。
泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷(えぞ)をふせぐとみえたり。
偖(さて)も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。
「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷(うちしき)て、時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍(はべ)りぬ。
「奥の細道」(平泉) 現代語訳
三代にわたった藤原氏の栄耀は一睡の夢のように儚(はかな)く、その藤原氏の大門の跡は一里ほどこちらにある。
秀衡の館の跡は今、田野となり、金鶏山だけが昔のままの形を残している。
まず高館に登って見ると、北上川は南部から流れる大河である。
衣川は、和泉の城を巡り流れて、高館の下で大河(北上川)に流れ入る。
泰衡らの旧跡は、衣が関で仕切り、南部口を堅く警戒し、夷(えぞ)を防いだようである。
それにしても、義経は忠義の心のあつい家臣をより抜き、この城にたてこもったが、名をあげたのはほんのわずかなときで、今は草むらとなっている。
国は破壊されても、山や川は昔のままにある、城跡にも草が青青と生い茂っている、と笠を打ち敷きにして腰をおろし、時の過ぎゆくまま涙を流しました。
(できるだけ、原文に合わせて、訳しています。)
国破山河在 城春草木深
芭蕉がここで使ったのは、杜甫の春望「国破山河在、城春草木深」です。漢文です。
「国破れて山河あり、城春にして草木深し」
「くにやぶれてさんがあり、しろはるにしてそうもくふかし」
夏草や兵どもが夢の跡 俳句の読解
奥州高館にて
夏草や兵どもが夢の跡
「夏草や」、切れ字(きれじ)の「や」があります。
切れ字は、「世界」を完成させます。
この句は、「夏草」という意味の世界から成ります。
「夏草」と意味(世界)を重ねているのが、「兵どもが夢の跡」です。
今、目に見える実際の景色(実景【じっけい】)と、心象風景。
実景の世界と心象風景の世界が重なっているわけです。
それをつくりあげているのは、芭蕉の思考の世界です。
昔、たしかにあった世界、しかし、それも今となっては、夢のまた夢。
辺り(世界)は、夏草が繁茂するばかり。
夏草(や)
||
兵どもが夢の跡
(「兵どもが」の「が」は、連体修飾格の格助詞です。連体修飾格の格助詞「の」と同意です。【兵どもの夢の跡】。
小林一茶の「めでたさも中くらゐなりおらが春」、「おらが春」の「が」も同じく連体修飾格の格助詞です。)
心象風景とは、意識の中で浮かんだ姿形(すがたかたち)、イメージです。
高館(たかだち)に登った芭蕉は、辺り一面(平泉)に生い茂る「夏草(や)」の世界に、「兵どもが夢の跡」を見ます。
時の移ろい。
夢のまた夢。
人は、あっという間に、過去となる。
跡には、草が生い茂るのみ。
芭蕉は、時の経つまま、涙を流し続けます。
夏草や兵どもが夢の跡
奥の細道、旅の空の下からの作です。
こちらもどうぞ