古池や蛙飛びこむ水の音 解説 その意味と魅力
古池や蛙飛びこむ水の音 意味(訳)場所 季語
ふるいけやかわずとびこむみずのおと
意味(訳)
古池に、蛙が飛びこんだ水音がした。しかし、その音もすぐに消えた。
場所
江戸深川の芭蕉庵での作といわれています。
(古池は、芭蕉の心象風景の中の池。)
季語
蛙(かわず)で、春
「古池や蛙飛びこむ水の音」を読み解くことで「蕉風」を理解する
「古池や蛙飛びこむ水の音」は、よく知られた句ですね。
魅力あふれた句です。
蕉風俳諧(しょうふうはいかい)の始まり、といわれています。
「蕉風」とは、俳風であり、理念です。
それは、境地であり、世界観です。
でも、なぜ、「古池や蛙飛びこむ水の音」の句が、蕉風俳諧の始まりといわれるのでしょう。
「わび」「さび」の句だから?
じゃあ、いったい、「古池や蛙飛びこむ水の音」の、どこが、「わび」「さび」?
そもそも、「わび」「さび」って?
今回は、「古池や蛙飛びこむ水の音」の句で、蕉風の魅力、「わび」「さび」を、できるだけ、やさしく解説します。
基礎知識は、こちら → 芭蕉の作品と「俳句」と「発句」と「俳諧の連歌」の基礎知識
「古池」という言葉が持つ意味
古池や蛙飛びこむ水の音
「古池」とは、古びた池、古くからあった池です。
もちろん、芭蕉の「古池」は、その字義通りの池ではありません。
名もない池。
もの寂しくも、おのずと心静かになれる古い池。
趣(おもむき)、情感、「わび」「さび」と通じる池です。
芭蕉の「侘しさ」「寂しさ」の超越
古来、「わび」「さび」は、歌でも、茶道でも、多くの人が唱えてきましたが、ここでは、蕉風の「わび」「さび」に沿います。
漢字で記せば、「侘(わび)」「寂(さび)」。
その漢字を使って「わび」「さび」をひとことでいえば、「侘しさ」「寂しさ」を超越した閑寂(かんじゃく)の中の豊かさ、美しさ、閑寂味の洗練されたもの。
芭蕉のすごさは、生き方でそれを実践したところです。
「旅」です。
「わび」「さび」の「古池や蛙飛びこむ水の音」
もちろん、「古池」という言葉がいつだって「わび」「さび」になるわけではありません。
「古池」が「わび」「さび」と通じていくには、言葉の置き方においてです。
「わび」「さび」と成っているのが、「古池や蛙飛びこむ水の音」であるわけです。
「山吹」にはない意味
「古池や蛙飛びこむ水の音」は、その句の形に成るまでに、数回、手が入ります。
まず、「蛙飛んだる水の音」の句が出来ます。
それから、芭蕉は、上五を弟子たちに考えさせます。
弟子の宝井其角(たからいきかく)は、「山吹や」を提案しました。
(「山吹」は、春、鮮黄色の花を咲かせる落葉低木。)
しかし、芭蕉は、「山吹や」を上五に置かず、「古池や」を置きます。
「古池や蛙飛んだる水の音」
「古池」にはあって、「山吹」にはない意味。
それは、「わび」「さび」と通じ、「蛙」「水の音」と通じるもので、後の「蕉風」と通じるものだったわけです。
談林風から離れる 「飛びこむ」
芭蕉は、さらに考えます。
「古池や蛙飛んだる水の音」
「飛んだる」では、軽い。
撥音便(はつおんびん)ですからね。
撥音便は、「はねる」音ですから、よくいえば、軽妙、軽快、悪くいえば、軽い、軽々しい。
当時は、(よくいえば)軽妙(悪くいえば、軽い)滑稽(こっけい)な着想を特色とする「談林風」(西山宗因【そういん】)が主流でした。
「飛んだる」は、「談林風」には合ってはいた。
しかし、芭蕉はそこから離れた。
「古池や蛙飛びこむ水の音」の誕生です。
「蕉風」の始まりです。
(もちろん、芭蕉の頭の中では、それ以前から、俳諧への考えはあったはずです。
ただ、それが、一つの「形」になったのが、この「古池や蛙飛びこむ水の音」という句です。)
心象風景としての「古池」
「古池や蛙飛びこむ水の音」の「古池」は、芭蕉の心象風景の中の「古池」です。
句のキーが、「音」であるところからも、それがわかります。
実景を詠んだものではないからこそ、「古池や蛙飛びこむ水の音」はできた、といえるかもしれない。
「蕉風」の切っ掛けは、芭蕉の描いた心象風景にある、その心にあるとも。
(「『古池や蛙飛びこむ水の音』の池は、この池である」というような碑が、日本各地にあるようです。人気の句ですからね。
【将門塚だって、小野小町の墓だって、あちこちにあります。】
碑について、今回、触れません。
句が愛されていることは、良いことでしょう。)
世界は世界を包む 意味は意味を包む
古池や蛙飛びこむ水の音
「古池『や』」
「や」は切れ字です。
切れ字は、世界をつくります。
世界を示します。
世界とは、「意味」です。
言葉は、世界をつくり、意味をつくります。
作り手の言葉の扱いによって、それは成ります。
この句の世界は、芭蕉の思い描く「古池」の世界です。
芭蕉の心象風景の中の池。
それは、古びて、閑(しず)かで、愛おしく、趣のある池です。
この世界を句の上でつくりあげているのが、「や」という切れ字です。
「蛙飛びこむ水の音」は、「閑寂」の世界に包まれる
「古池」という世界に、「蛙飛びこむ水の音」。
閑(しず)かな「古池」の世界だからこそ、「蛙飛びこむ水の音」が聞こえます。
「蛙飛びこむ水の音」が生きます。
「山吹」との違いは鮮明です。
「蛙飛びこむ水の音」
「蛙」「飛びこむ」「水」「音」という一つひとつの言葉は、「蛙飛びこむ水の音」となって、一つの意味になっています。
これは、「蛙」が動いたことによって、生まれた意味です。
「蛙」が、鳴いたり、歌ったりしては生まれない意味です。
ここにも、蕉風の始まりと見られる句の意義があります。
江戸期、芭蕉が「古池や蛙飛びこむ水の音」をつくるまで、俳諧は、和歌の伝統と作法にならってきました。
和歌の作法からすれば、「蛙」といえば、「山吹」であり、「鳴く」だったのです。
弟子の其角が、上五に「山吹や」を置いたのも、そこに起因します。
(「絵」でも、「蛙」と「山吹」の取り合わせはお馴染みです。)
世界(意味)は、世界(意味)を生みだす
「水の音」は、「蛙」が鳴かずに、「水」に「飛びこん」だことによって生まれました。
「蛙」もまた世界(意味)なのです。
世界は、世界(意味)を生みだします。
「水」もまた世界(意味)です。
だから、「水」も「音」を 生みだしました。
さかのぼれば、「水」が「音」を生みだしたのも、「蛙」が「飛びこん」だからです。
で、「蛙飛びこむ水の音」となった。
そうしてまた、その世界(観)が広がるのは、「古池や」を上五に置いたからこそなのです。
「古池や蛙飛びこむ水の音」
マクロからミクロを考えだす ミクロからマクロを考え出す
芭蕉が実際に句をつくりあげた順番からすれば、「蛙飛んだる水の音」と(其角の)「山吹や」のほうが、「古池や」よりも、前であるわけですから、「蛙飛んだる水の音」と「山吹や」が、「古池や」を生みだした、といえます。
これは、思考するにおいて、句をつくるにおいて、なにも不自然なことではありません。
マクロ的世界(意味)からミクロ的世界(意味)を考え出す、生みだすこともあれば、ミクロ的世界からマクロ的世界を考え出す、生みだすこともありますよね。
世界は世界を包み込む
「音」は、「蛙飛びこむ水」とともにあります。
「水の音」は、「蛙飛びこむ」とともにあります。
「蛙」「飛びこむ」「水」「音」と、それぞれが独立した世界(意味)でありながら、一つの世界に、一つの意味になっています。
「蛙飛びこむ水の音」という一つの世界、一つの意味に。
この一つの世界、一つの意味が、さらなる大きな世界である「古池」に包み込まれます。
「蛙飛びこむ『水』」は、「古池」だからです。
「蛙飛びこむ水の音」の意味、世界は、さらなる大きな意味、世界に包み込まれるのです。
「古池」という世界に。
そうして、「蛙飛びこむ水の音」は、消えてなくなります。
「蛙」も、「音」とともに消えてしまいます。表向きには。
しかし、「蛙」は、「飛びこん」だ「古池」の中で生きています。
その世界の中で、確かに、生きている。
「古池や蛙飛びこむ水の音」の句は、「春」の季語である躍動する「蛙」が、まさに「生きる」句になっているのです。
静かな「古池」は、前と何ら変わらずにあるようで、じつは、違っている。
「蛙」が「音」をたてて「飛びこん」だから。
「飛びこん」だ「蛙」が、今は見えないが、中で確かに生きているから。
しかし、そこには、しんとした「古池」があるばかり。
「わび」「さび」です。
深みを増す世界(意味)
※スマホを横向きにしてご覧ください
「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「静」→「動」という意味の流れ、世界の流れをつくっています。
「静」 → 「動」
「古池」 → 「蛙飛びこむ水の音」
しかし、「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「静」→「動」で終わっているのではありません。
静かな「古池」という世界は、「蛙飛びこむ水の音」の後に、また静かな「古池」の世界となります。
「静」 → 「動」 → 「静」
「古池」 → 「蛙飛びこむ水の音」 → 「古池」
しかし、それは、前と同じ静かな「古池」ではない。
世界(意味)は、世界(意味)を包み込むことによって、さらにその世界(意味)の深みを増すのです。
「古池」は、「蛙飛びこむ水の音」を包み込んだことによって、「閑寂」の深みを、その趣を増します。
それは、つまり、「古池や蛙飛びこむ水の音」という句そのものが、その深みを増すということです。
「古池や蛙飛びこむ水の音」は、一つの句、一つの世界だからです。
蕉風俳諧の始まり
「古池や蛙飛びこむ水の音」は、ただ単に日常の言葉を並べただけの句ではありません。
「蕉風」俳諧の始まり。
「わび」「さび」の句です。
それは、言葉の置き方から成っています。
風景や雰囲気等で、「わび」「さび」を感じさせるのではなく、言葉だけでそれを感じさせるというのは、本当にすごいことですよね。
「侘しさ」「寂しさ」を超越した閑寂(かんじゃく)の中の豊かさ、美しさ、閑寂味の洗練されたもの、「わび(侘)」「さび(寂)」。
名もない、古びた池。
そこに、蛙が飛びこむ水の音がする。
古池や蛙飛びこむ水の音
言葉の世界(意味)の深みを増した、松尾芭蕉の句です。