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三四郎 夏目漱石 解説 その1

#接続語,#関係性

夏目漱石の「三四郎」を、読み解く

 小説にどっぷり浸かる、話の中に入りこむ、とは、目の前の言葉をありのままに受けとめる、ということです。

 次に、夏目漱石の「三四郎」の一場面を示します。

 一緒に読み解いてみましょう。 


 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した。その時三四郎はこの女にはとても叶(かな)わない様な気が何処かでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。

「迷子」

 女は三四郎を見たままでこの一言を繰返した。三四郎は答えなかった。

「迷子の英訳を知っていらしって」

 三四郎は知るとも知らぬとも言い得ぬ程に、この問を予期していなかった。

「教えて上げましょうか」 

「ええ」

「迷え(ストレイ)る子(シープ)━━解って?」

 三四郎はこう云う場合になると、挨拶に困る男である。咄(とっ)嗟(さ)の機が過ぎて、頭が冷かに働き出した時、過去を顧みて、ああ云えば好かった、こうすれば好かったと後悔する。  

目の前の言葉を確認する

 では、一緒に、目の前の言葉を確認していきましょう。

 美禰子は三四郎を見た。三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した。その時三四郎はこの女にはとても叶(かな)わない様な気が何処かでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。

「三四郎」が「上げかけた腰を又草の上に卸した」のは、「美禰子」が「三四郎を見た」からです。

 第二文の頭に、「それで」等の順接の接続語を補うことができます。(順接の接続語の前は、原因・理由の内容で、後はその結果の内容になります。)

美禰子は三四郎を見た。(それで)三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した。

その時三四郎はこの女にはとても叶わない様な気が何処かでした。同時に自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。

「その時」以降の文は、「上げかけた腰を又草の上に卸した」「時」の「三四郎」の感情です。

「同時に」とあるように、一つの感情が、二つの文で記されています。

一つの感情を、観察、分析してみましょう。(それにより、見えてくるものがあるからです。)

※図解は、スマホを横向きにしてご覧ください。

〈図〉

その時

三四郎は

この女にはとても叶わない様な気が何処かでした。

同時に

自分の腹を見抜かれたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じた。 

感情は、単純そうでも、複雑

一つの感情というものは、単純そうで、実は複雑なんですね。

漱石は、それを記しています。

「この女にはとても叶わない様な気」と「自分の腹」は通じています。

そして、そこには、「一種の屈辱」が、「かすかに」あるんです。

内容を掘り下げる

さらに、内容を掘り下げてみましょう。

「三四郎は」「この女にはとても叶わない様な気が何処かでし」ました。

「美禰子」に対する気おくれです。

「三四郎」の「腹」の内にはそれがあるんです。

「三四郎」は、自信がないんです。「美禰子」に引け目を感じているんですね。

 それが、「この女にはとても叶わない様な気が何処かでした」です。

 そうして、「三四郎」は、その思いを、「美禰子」に、「見抜かれ」てしまったと「自覚」します。

 それに「伴う一種の屈辱」、恥ずかしさを、「かすかに感じ」ているんです。

内容を目で見て、確認する

内容を図解してみます。

目で見て、確認しましょう。

※図解は、スマホを横向きにしてご覧ください。

〈図〉

美禰子は三四郎をた。          原因(外因)    

(それで)

三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した。(動作)結果 

その時               (心情)理由・(心情)結果 

三四郎はこの女にはとても叶わない様なが何処かでした。

(それと)同時に                  

(この女に)自分の抜かたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかにじた。

原因と結果の関係

上の図から、原因(外因)と結果の関係、という意味の流れを確認していきましょう。

(どうぞ、上の図を見ながら、以下を読んでください。)

「三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した」の一文に、原因の一文の主語と述語をつくっている「美禰子」、「見た」と通じる言葉はありません。

 明確な原因と結果という関係性が、第一文と第二文という連続した書き方の中に存在しているからです。(第二文には、「美禰子」、「見た」という言葉【意味】が、見えずとも生きているということです。)

「その時」以降の心情の文には、「美禰子」、「見た」と通じる、「この女」、「見抜かれた」があります。

「美禰子は三四郎を見た」という原因(外因)と、三四郎の心情が、因果関係をつくっているからなんです。

(だから、「その時」以降の文は、「三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸した」という動作結果の心情理由となっている、といえるんです。)

意味、関係性は、書き方から生まれる

 意味、関係性は、書き方から生じます。

 記されている文字を、目で確認することから読解は始まります。

 記されている文字から離れて、自分の頭の中だけで思考すると、目の前の文章は壊れます。

 目の前の文章を、ありのままに読める、それが、読解力です。

 目の前のものを、まずは受けとめ、そこから考えていくことで、自身の思考の力は磨かれていきます。

因果関係を文字で確認する

 文字と因果関係について、本文を、もう一度、確認しておきましょう。

 原因の一文は、「美禰子は三四郎を見た」です。

 ここの主語は「美禰子は」で、述語は、「見た」です。

 この主述の意味をつくっている「美禰子」と「見た」が、原因の重要なキーですから、結果にもそのキーの意味が生じるんです。必ずです。必ず生じます。

 それが因果関係というものです。

 もし、その書き方をしていない文章があるとすれば、それは意味の破綻している文章です。誤った書き方をしているということです。

文字が意味を表す

記されている文字が、意味を表します。

書き方です。

書き方が、行間の意味も、省略の意味も、つくりだします。

それは、書き手の思考の力です。

文章は、書き手の思考が形になったものです。

それを読み取るのは、読み手の思考の力です。

行間の意味、省略の意味は、なんとなくのものではありません。記されている文字、書き方からのものです。

思いは、心の奥底にある

 本文に戻りましょう。

「三四郎」には、この場面に至るまでの「美禰子」への思いがあります。

 それは、心の奥底にしっかりと存在しています。

 だからこそ、「美禰子」に「見」られて、「三四郎は上げかけた腰を又草の上に卸」すことになるんです。「この女にはとても叶わない様な気が何処かで」し、「自分の腹を見抜かたという自覚に伴う一種の屈辱をかすかに感じ」るんです。

(「られ」、「れ」は、受身の意味) 

続きは、その2へ → 三四郎 夏目漱石 解説 その2