菜の花や月は東に日は西に 解釈 与謝蕪村を読む
菜の花や月は東に日は西に 与謝蕪村
(なのはなやつきはひがしにひはにしに よさぶそん)
俳句の解釈文
解釈文について触れておきます。(「読み方」はこちら → 菜の花や月は東に日は西に 読み方 与謝蕪村 その1 )
「菜の花や月は東に日は西に」の句の場合、ミクロ的世界をつくりだしていく言葉、主語となる「菜の花」、「月」、「日」がキーです。
キーの意味・内容の作り方は、たとえば「日」はどのような「日」なのか、その「日」はどうしているのか、といった具合にして形づくっていくんです。
この句で「月」と「日」の世界を結びつけ、雄大なマクロ的世界を成り立たせているのは、「菜の花」です。
解釈文では、この「月」と「日」と「菜の花」の関係性を示すことになります。
下の図を確認してください。
「日」からの矢印も、「月」からの矢印も、「菜の花」に向いていますね。関係しているということです。
意味のつながり方、係り受け、そういったものがキーとキーの関係性です。俳句の中の言葉は、意味の上でつながり、一つの世界をつくっています。解釈文でもそれを示すんです。
意味の連続性が世界の成り立ちです。
図解
(スマホを横向きにしてご覧ください)
西に(沈みかけた夕の)日(を浴びた【、】)
↓
(辺り一面に咲く)菜の花(、)
↑
(その)東(の空)に(は)月(が昇り始めている)。
「西」の「日」と「東」の「月」は、時空の広がりです。
そして、沈む「日」に対して、昇る「月」は始まりです。
この「月」を解釈文の最後に記すことによって、俳句で示された一瞬と永遠という時間も示すことができます。
完成している俳句の意味(世界)を壊さなければ、解釈の際、ミクロ的意味の世界の語順を入れ替えても問題ありません。
五七五という定型俳句と散文では、語の置き方、書き方が違いますから、ミクロ的世界を入れ替えたほうが、むしろ自然な散文の形、書き方になるともいえます。
上の図の解釈文の「菜の花」の下で、読点(、)を打っても、句点(。)を打っても、指示語を記しても、記さなくても、意味は一旦切れます。
しかし、(日本語の書き方の)上から下へという流れがありますから、意味はそこで終わることなく続き、一つのマクロ的世界の完成へと通じます。(ここでは、横書きですから、左から右へになってしまっています。)
これは、俳句の意味の世界が壊れていない、解釈文に俳句の意味が明確に示されている、ということの証(あかし)でもあります。俳句では、「菜の花」の下に切れ字の「や」がありましたよね。
完成した俳句の世界、その意味・内容を、瑕疵のない解釈文、散文の形で表そうとすれば、それは自ずと通じる書き方になるんです。
型(かた)は違えど、俳句と解釈文の表す意味・内容は同じだからです。
どちらも日本語という言葉の意味の世界を表しているからです。
これは、当然といえば当然のことなんです。古文、漢文もそうでしょう。日本語という言葉は、意味・内容を持った形なんです。
意味、世界の完成された俳句十七文字の中で、重要でない文字など一字もありません。
これは完成された散文でもいえることです。
無駄な文字など、そこには一字たりともない。
具体例にしても、データにしても、必要だからこそ記すんです。
もし、無駄な文字がある、足りない文字があるとすれば、それは意味、世界が完成していない文章ということなんです。
菜の花や月は東に日は西に 俳句の読み取り方 読解はこちら