菜の花や月は東に日は西に 読み方 与謝蕪村 その2
マクロ的世界は、ミクロ的世界の一瞬の結合
「菜の花や月は東に日は西に 読み方 与謝蕪村 その1」の続きになります。
解釈文はこちら → 菜の花や月は東に日は西に 解釈 与謝蕪村を読む
菜の花や月は東に日は西に
「菜の花や月は東に日は西に」という世界のつりあいは、因果のつりあいではありません。
この句のマクロ的世界は、ミクロ的世界の一瞬の結合です。その完成形です。
それが、「菜の花や月は東に日は西に」という情景です。
よって、三つ、それぞれの述語は、一瞬の意味、一瞬の書き方をすることになります。
「~ている」という書き方です。
菜の花(が咲いている)や
月は東に(昇り始めていて)
日は西に(沈みかけている)
「つりあい」
「つりあい」について、ちょっと説明しておきます。
つりあいというのは、同種のものばかりがつりあうわけではありません。
反対のもの、異種のものもつりあいます。
因果もつりあいます。
要はバランスなんです。
逆接の接続詞も、バランスのとれた反対のものをその前後でつりあわせているんです。
「時間」
「時間」についても説明しておきます。
時間というのは、一瞬という時の連続したものです。
「なの花や月は東に日は西に」は、春の夕暮れの一瞬の情景で、この一瞬は、俳句という句読点が打たれぬ形により、永遠の時間ともなります。
一瞬と永遠、写真を思い浮かべてくれてもいいですね。
写真というものは、一瞬でもあるし、永遠でもあるでしょう。
「一瞬」を文字で記す
では、その「一瞬」、文字で記すと、どうなるか。
それは、完了の書き方ともなって、状態の継続の書き方ともなって、永遠の書き方ともなります。
「一瞬、完了、状態の継続、永遠」についても少し触れておきます。
「テーブルに置いた花瓶」の「た」は、完了です。
でも、これは「テーブルに置いてある花瓶」のようにも書きかえられますね。
「てある」は状態の継続です。
この「た」という「完了」、「てある」という「状態の継続」、どうです?
この二つ、「一瞬」とも、「永遠」とも捉えることができるでしょう。
「花瓶」は、今、という一瞬間、「テーブルに」ある、とも読めるし、「花瓶」は、永遠に「テーブルに」ある、とも読めます。
つまり、一瞬の書き方、意味は、完了、状態の継続、永遠といった書き方、意味と通じるんです。
「菜の花や月は東に日は西に」
「菜の花や月は東に日は西に」、雄大に広がる情景、この広がるという動きは、意味の完成を求める一瞬の、そして永遠の動きなんです。
この動きは、日本語の書き方である上から下へという流れから成っています。
この流れの中で、「菜の花」は、「月は東に日は西に」に生きています。
つまり、「東」の「月」と「西」の「日」を結びつけ、一つの雄大な世界をつくりあげているのは、書き出しの「菜の花」であるといえるんです。
そして、このことは、「菜の花」が一本や二本ではないということでもあります。
「月は東に日は西に」という雄大な時空間の中、「菜の花」は(辺り)一面に咲いているんです。
五七五という言葉の配置
十七文字で、時空という間(ま)を、世界を、意味を、つくる。
五七五という言葉の配置は、親しみやすくも、奥の深い思考行為なんです。
言葉の補い方
言葉を補うとは、意味を補うことです。
「意味」を成り立たせる基本は、主語と述語です。
ということは、「補う」べき基本の言葉は、主語か、述語かです。
もし、主語も、述語も揃っているのであれば?
そのとき「補う」のは、修飾語です。
主語と述語が、意味を成り立たせる基本型なんです。
そこへ、さらなる意味を付加していくのが修飾語なんです。
「菜の花や月は東に日は西に」
では、句を確認してみましょう。
「菜の花や月は東に日は西に」
この句で、記されていない言葉、記されていない文の成分は、述語、そして、修飾語ですね。
意味は、世界であり、時空間です。
だからこそ、「菜の花」は、その「咲く」という述語動作の完成のために、時と場所、時空間を求めるんです。
下の図の「辺り一面に」とは、「月は東に日は西に」という時空間の中にある「辺り一面に」です。
しかしまた、その「辺り一面に(咲く『菜の花』)」は、「東」の「月」と「西」の「日」を結びつけてもいるんです。
図
菜の花(が辺り一面に咲いている)や
月は東(の空)に(昇り始めている)
日は西(の空)に(沈みかけている)
ミクロ的世界は自身の意味の完成のために、マクロ的世界の意味の完成を求めます。
そしてまた、マクロ的世界は自身の意味の完成のために、ミクロ的世界の意味を完成させようとするんです。
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