分け入っても分け入っても青い山 意味 種田山頭火を読み解く
「分け入っても分け入っても青い山」の前書き
種田山頭火
前書き
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
分け入っても分け入っても青い山
わけいってもわけいってもあおいやま
種田山頭火(たねださんとうか)の自由律俳句です。
この句、しっかりとした前書きがあるにもかかわらず、それを、大分、無視されて解釈されることが多いようです。
まあ、俳句を好きに解釈して、自分のものにしたって、それはそれで一向に構わないわけですけど。
でも、ここでは、山頭火の「分け入っても分け入っても青い山」という句の中身を読み解いていきます。
重要な前書きの意味
もちろん、句の前書きについては、それがすべて重要というわけではありません。
たわいないほんのメモ書き程度の意味のものもあります。
しかし、この「分け入っても分け入っても青い山」の句の前書きは、大変重要な意味を持っています。
とても無視などできない内容です。
(「前書き」については、夏草や兵どもが夢の跡 松尾芭蕉 「奥の細道」平泉 俳句 前書からの読解でも触れています。)
前書きというものの存在
そもそも、「分け入っても分け入っても青い山」という句に前書きがある、なんてこと自体、知らない人も多いですよね。
それで、この句を読んで、なんて明るい句なんだろうとか、なんてさわやかな句なのかしらとか、なんとも意欲あふれた句じゃねえかとか言う人がいるわけです。
でも、前書きの存在を知れば、この句の意味が見えてきますよ。
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
この前書きを大切に、「分け入っても分け入っても青い山」を、ありのままに読み解いていきましょう。
行乞流転の旅
前書きにある「行乞(ぎょうこつ)」とは、托鉢(たくはつ)のことです。乞食(こつじき)に歩くことで、僧侶が人家の前に立って、食を求めることです。
「分け入っても分け入っても青い山」の句を詠んだとき、山頭火はすでに出家していて、僧になっていました。
「流転」とは、流れ移ることです。
頼りとする人も物もなく、食うあてもない。
山頭火は、「解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転の旅に出た」。
そうして、この句があります。
分け入っても分け入っても青い山
分け入っても分け入っても青い山 意味
分け入っても分け入っても青い山だ。
分け入っても分け入っても青い山が続く。
分け入っても分け入っても青い山ばかりだ。
分け入っても分け入っても青い山ばかりが続く。
青い山を分け入っても分け入っても青い山だ。
青い山を分け入っても分け入っても青い山が続く。
青い山を分け入っても分け入っても青い山ばかりだ。
青い山を分け入っても分け入っても青い山ばかりが続く。
「青い山に」ではなく、「青い山を」です。
「に」ではなく、「を」。
この「を」については、順を追って説明します。
分け入っても分け入っても青い山 解説
前書き
大正十五年四月、解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
山頭火は、「解くすべもない惑ひを背負」っ「て、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出」ました。
山頭火の「旅」は、解決方法のない迷いを背負っての「旅」です。
しかも、「流転」。
行く先も決まっていないわけです。
食べるにも、人に恵んでもらうしかない。
青い山
体言止めで強調されている語は、「山」です。
しかし、この「山」、ただの「山」ではない。
「青い山」。
山頭火の行く手をふさぐ「青い山」。
山越えをする山頭火の眼前には、たしかに「青い」木々が生い茂っているのでしょう。
しかし、体言止めで強調されているのは、ただの「青い」木々でない。ただの「青い山」ではない。
解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出ての、「青い山」です。
「青い山」とは、山頭火の生きている現実の世界です。
「青」とは、若さ、未熟さ、冷たさなどの意も持ちますが、「青い山」の「青」は、生気あふれる意で、みずみずしく、すがすがしい、清新な意です。+のイメージですね。「明」のイメージ。
山頭火の詠んだ「青い山」とは、酒であり、女であり、自身の享楽(きょうらく)につながるものです。
山頭火を惑わせてしまう、山頭火を狂わせてしまう諸々(もろもろ)。
「青い山」とは、俗な世界であり、俗なものです。
きらびやかで、華々しく、楽しくて仕方のないもの。
それで、「青」。
真っ当に生きたいと思う、修行僧として旅立った山頭火の行く手をふさぐ「青」。
「青い山」です。
青い山を分け入っても分け入っても青い山
別角度からいえば、「青い山」は、山頭火が今初めて見る山ではありません。
「青い山」は、山頭火がすでに知っている「山」で、いつも自分の前に立ちはだかる「山」です。
だから、「青い山に分け入っても分け入っても青い山」ではなく、「青い山を分け入っても分け入っても青い山」。
山頭火は、すでに知っている「青い山」を、今眼前に広がる山越えの「青い山」に重ねています。
だから、「に」ではなく、「を」。
体言止めが利いているのも、隠れた「を」の意味が生きているからです。
比べてください。
解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
「青い山に分け入っても分け入っても青い山」
解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
「青い山を分け入っても分け入っても青い山」
意訳
「分け入っても分け入っても」
「くりかえし」の技法で、「分け入っても」が強調されています。
それは生き様です。
真っ当に生きたいという、雲水、山頭火の強い思いが、「分け入っても分け入っても」です。
解くすべもない惑ひを背負うて、行乞流転(ぎょうこつるてん)の旅に出た。
分け入っても分け入っても青い山
この世界を生きても生きても、どこまでも誘惑があふれている。
山頭火、孤独な旅の始まりです。
旅立ちの背景
山頭火の旅立ちの背景について、ほんの少しばかり、触れておきます。
山頭火は十歳のとき、母に自殺され、三十四歳のとき、弟に自殺されます。
山頭火が救いを求めたのは、俳句と酒でした。
しかし、俳句はともかく、酒は、路面電車を止めるほどの飲み方になってしまいます。
そうして、出家することとなる。
雲水となった山頭火は、荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が主宰する「層雲」(俳誌)に、自作の句を送り続けます。
山頭火が救いを求めた俳句と酒は、山頭火にとって、まさに生きる支えだったのです。
山頭火は、僧になってからも、自殺を図ったり、泥酔して留置場に入れられたり、女を買ったりします。
山頭火の句の魅力は、奥の深さと、人としての魅力ですね。
山頭火は、自らを嘲(あざけ)っています。
「なまけもの也、わがままもの也、きまぐれもの也、虫に似たり」
強いだけの人間なんていませんよね。
人が強く生きようとするのは、弱いからでしょう。
山頭火にしても、放哉にしても、その孤独な生は壮絶でした。
※雲水は、「行雲流水(こううんりゅうすい)」からの言葉です。
「行雲流水」とは、空を行く雲と流れる水の意で、執着なく、物に応じ事に従って行動する意です。
そこから「雲水」は、行方を定めず遍歴修行する僧の意となります。
※俳誌「層雲」には、尾崎放哉も句を送っていました。
山頭火と放哉は、まったくの同時代人です。
しかしながら、二人が顔を合わせる機会はありませんでした。