象徴の意味と例 隠喩との違い 高村光太郎「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」を読み解く
象徴と隠喩との違い
象徴と、隠喩(暗喩・メタファー)は、違います。
隠喩は、比喩の一つです。
→ 比喩とは、比べて喩(たと)えること。
→ 比べるとは、ならべることです。つまり、ならべて喩(たと)える。
→ 比喩(隠喩・直喩)は、「AとBをならべて喩(たと)える」。
→ 比喩(隠喩・直喩)は、AとBの存在が文字の上で明確です。
ならべる「比喩(隠喩・直喩)」
それに対して、「象徴」は、ならべない
象徴は、本来、関係のない、A、B、二つのものの中に、書き手が、類似性を見つけ、意味を成り立たせるものです。
→ 象徴は、具体的なものを記し、そこに抽象的な意味を込める、秘める。
→ 象徴は、具体的なもの(B)を文字として記しますが、多くの場合、抽象的な意味(A)を文字として記しません。(優れた小説や詩は、訴えたいこと【抽象的な意味】を、あからさまに記さないのです。)
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ただ白いハトを記すだけでは、「平和の象徴」にはならない
文章においての「象徴」とは、レトリック(修辞法)です。
「象徴」は、読み手に、感じさせる、考えさせる書き方です。
だから、ただ「白いハトは、平和の象徴です」と書いても、これを、「象徴」の書き方とはいいません。
文章中において、「白いハト」が「平和」の「象徴」と感じさせる書き方をしていてはじめて、「象徴」というレトリックは成るんです。
象徴の書き方をしている例を、次にあげましょう。
「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」
高村光太郎の詩、「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」です。
この詩は、象徴の書き方がされています。
「象徴」の解答、解説は、詩の後で記しますから、どうぞ、「象徴」を考えながら、感じながら、「ぼろぼろな駝鳥(だちょう)」を読んでみてください。
何は、何を「象徴」しているのでしょう。
※ スマホを横向きにしてご覧ください
ぼろぼろな駝鳥(だちょう) 高村光太郎
何が面白くて駝鳥を飼うのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大股過ぎるぢゃないか。
頚(くび)があんまり長過ぎるぢゃないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢゃないか。
腹がへるから堅パンも喰ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢゃないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢゃないか。
瑠璃色(るりいろ)の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢゃないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢゃないか。
これはもう駝鳥ぢゃないぢゃないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
「象徴」を読み解く
どうでしょうか。
何は、何を「象徴」しているのでしょう。
ちょっと考えますか?
解答・解説はこのすぐ下です。
ここ ここ ↓
解答・解説
「駝鳥」は、駝鳥であって、駝鳥ではありません。
「駝鳥」は、自由を奪われ、人間性を抑圧されたものを象徴しています。
「象徴」の意味を、もう一度、ここに記しましょう。
「具体的なものを記し、そこに抽象的な意味を込める、秘める」
「具体的なもの(駝鳥)を文字として記し、訴えたいこと(自由を奪い、人間性を抑圧するものへの怒り)を文字としては記さない」
「象徴」の持つ力
「ぼろぼろな駝鳥」は、優れた詩です。
誰かに抑圧されている人がこの詩を読めば、「駝鳥」と我が身を重ねることでしょう。
そして、最終部の「人間」に、自分を抑圧している人間を重ねることでしょう。
「象徴」の持つ力です。
読み手に、目に見えている文字と、見えない意味を、重ねさせる。
読み手は、感じるのです。
考えるのです。
思い描くのです。
「象徴」というレトリックの持つ力です。
(逆方向から言えば、読み手が考えられない、感じられないことを、「象徴」として書こうとしても、それは「象徴」として成り立ちません。)
権力 光太郎の怒り
自由を奪い、人間性を抑圧しようとするのは、その力を持つものです。
他者を抑(おさ)えつけ、支配する力。
それを、権力、といいます。
国、会社、組織、血縁、地縁、家、等等、枠(わく)のくくり方で、権力は、種種、存在します。
光太郎は、抑圧される人間の側に立ち、抑圧する側の人間に対して、激しく怒っています。
「ぢゃないか」をくりかえし(反復法)、現状を強く批判しています。
倒置法と呼びかけ(頓呼法【とんこほう】)
詩の最終文には、「倒置法」と「呼びかけ(・頓呼法【とんこほう】)」が使われています。
通常の語順(書き方)
人間よ、
こんな事は、もう止せ。
↓
倒置法
人間よ、
もう止せ、こんな事は。
「人間よ」と「呼びかけ(頓呼法)」で、抑圧する側の「人間」を際立たせ、倒置法を使って、「もう止せ」という怒りの訴えを強調しています。
今、高村光太郎の目の前に、抑圧する側の「人間」が立っているわけではありません。しかし、光太郎には、ありありと見えているのです。自由を奪い、人間性を抑圧する「人間」の姿が。「呼びかけ(・頓呼法)」とは、その書き方をします。
「こんな事」が指し示しているのは、「駝鳥」が強(し)いられている具体的な内容です。
つまり、「象徴」の内容。
「自由を奪い、人間性を抑圧すること」です。
最後の一文で、詩すべての意味を表しています。
「ぼろぼろな駝鳥」がつくられたのは、1928年です。
高村光太郎は、第二次世界大戦において、戦意高揚や戦争賛美の詩を書きますが、後に深く自省し、岩手の山中に、独り、籠ります。
これについては、ここで長長と記しませんが、光太郎の生き方を、僕は尊敬しています。