文章のキーワード 読む力、書く力、考える力は、生きていく力そのもの
キーワード
キーワードとは、文章中で鍵となる言葉です。
この第一のものが、主語です。
第二のものが、述語です。
述語は、主語の意味を決定づけます。
そうして、文は成ります。
また、主語や述語を修飾する語が、第三のキーです。
修飾語ですね。
多くの場合、「~を」、「~に」、「~で」の形で第三のキーとなります。
これらの語が、一つのまとまった意味を成立させ、文章の流れをつくります。
「流れ」ない、というのは、論理の破綻があるからです。
論理の破綻の原因は、キーワードの扱いに失敗しているわけです。
意味のつりあわない語を、キーワードとして記しているということです。
意味の流れをつくるのも、壊すのもキーワードです。
だから、キーとなるんです。
ものには、成分がある
文章にしても、物体にしても、成立しているものは、マクロの形です。
そこには、必ず成分があります。
ミクロの世界です。
マクロの形、その世界を理解するには、ミクロの世界の理解が必須です。
そもそも、マクロとミクロは表裏一体です。
マクロはミクロから成ります。
ミクロ、マクロの観察眼
ミクロ、マクロで見ることができると、文章を読むのも、書くのも、新しいものを考えるのも、楽になります。
観察眼は、思考力です。
それは、わざわざ意識せずとも、働く「見る」力で、考えられる力です。
なぜ読めるようにならないのか
練達は、膨大な数の「本物」ばかりを見て学びます。
理論は、そこから抽出されたものです。
膨大な数と量が、理論を生みます。
人間は、基本的に、面倒臭がりですよね。
誰だって、面倒なことは嫌いです。
しかしながら、「何か」の達人になるには、頭を使わない反復実践学習か、頭を使う理論学習かをする必要があります。
または、その両方をする必要が。
頭を使わない反復実践学習は、とてつもなく膨大な時間がかかります。
それに比べれば、頭を使う理論学習は、時間がかかりません。(でも、受けとめるスタンスがなければ、時間がかかりますね。良い本と出会っても、優れた師と出会っても、結果を出すのに時間がかかるのは、受けとめるスタンスの問題です。
また、理論をただ暗記するだけで、その本当の力を考えられずに、本来の力を発揮することができない、という場合もありますね。)
まあ、いずれにしても、面倒といえば、面倒なわけです。
膨大な数をこなすのも面倒、それなりに頭を使うのも面倒。
で、いずれも、選択しない。
読めるようにはならないわけです。
意識せずとも「わかる」
日本語にしても、英語にしても、熟練すれば、これが主語で、これが述語で、なんてことを、意識するわけもありません。
でも、意味の成立しているものには、成分があることを、熟練者は、ちゃんとわかっています。
聞かれれば、それを答えられます。
マクロの形には、ミクロの意味が現にあるからです。
地球にも、人体にも、文章にもあります。
文の成分が、構成となります。
だから、文の成分をわかっていれば、文章の構成もわかるんです。
この「わかる」とは、わざわざ意識せずともわかる、ということです。
もちろん、文の成分を理解していない人が、それを意識しないのとは、まったく次元が違います。
読めない人というのは、文の成分があること自体を理解していないから、そもそも意識することができないんです。
それで、現に、目の前にあるものも、見えない。
「なんとなく」は、脳内で、キーワードが存在していない
読むにしても、書くにしても、「なんとなく」とは、キーワードの存在を理解していない状態です。
文章中の核となる意味が消えてしまっているのだから、内容を把握できるわけがありません。
「理解」するには、脳内で、自分で、別の「意味」をつくるしかなくなります。
誤った解釈は、個の脳内作業です。
見えるようになるには、見ようと意識すること
力がついていけば、キーワードというものは、見えてくるものです。
この「見える」ということが大事です。
わかれば、本当に、「見える!」となるんです。
力がつくまでは、だから、「見よう」と意識するんですね、ミクロの成分を。
「見よう」とすることは、意識することで、それは、脳が働いているということです。「考える」ということです。
読む力も、書く力も、考える力が土台です。
考える力は、一語一語の言葉を扱う力です。
それが、マクロの形を、その意味を理解する力に通じます。
ミクロ、マクロは、表裏一体ですからね。
キーワードがつくる「意味」を脳内で捉える
意味の関係性のあるキーワードを置いていくことで、文章は論理的に流れていきます。
読む力は、それを理解する力です。
書く力は、それを実行する力です。
読むには、他者の言葉を受けとめなければならず、書くには、自分で言葉をつくりださなければなりません。
ともに、考える力です。
「なんとなく」の作業ではありません。
主語というキーワード、その意味を決定づける述語、というように、形となった「ポイント」内容を脳内で捉えるんです。
自分自身で考える
私たち一人一人が、自分自身で考える力を持たぬと、本当に、とんでもないことになります。
思考停止の、右へ倣えの、とんでもない環境も、そこから生まれます。
そんな環境に巻き込まれてしまうというのも、とんでもないことですね。
文章の意味を判断するということ、考えるということ、生きていくということは、何ら変わりのないことです。