想像は、客観的、論理的な思考力を磨かない
AIをつくったのは、感情を持った人間
AI、人工知能に、感情はありません。
そこにある計算は、純客観的なものであり、論理的なものです。
AI、人工知能の強みは、客観的、論理的な計算です。
人間は、感情を捨て去ることはできません。
そもそも、感情がなければ、人間ではありません。
しかし、人間は、感情を持った上で、客観的、論理的な思考をすることが可能です。
なにしろ、論理的に深く学習することのできる(ディープラーニング)AIをつくったのは、他ならぬ人間です。
客観と論理の力は、誰の脳にも眠っています。眠っている力であれば、目覚めさせましょう。
想像という言葉は、誤った扱い方をされてきた
次の例文を読んでみてください。
例
ゆっくりと顔を上げると、泣いていた。
この例文の主語は何でしょう?
いったい、誰が泣いていたんでしょう。
「私が」泣いていたんじゃないの? つまり、書き手が泣いていたんじゃない?
そう考える人もいるでしょうか。
しかし、それでは、自分で勝手に文章をつくってしまっていることになります。
「次の文章は、○○が書いた日記です」などという古文の入試問題等でお馴染(なじ)みのリード文はこの例文にはありません。
上の例文の主語を「私が」と補うのは、想像です。
それは、客観的、論理的な思考ではありません。
想像でなら、どんなものでも主語になってしまいます。
「男が」でも、「女が」でも、「子供が」でも、「泣く」動作をするものなら、なんでも主語になってしまいます。
だから、この例文で「私」や「書き手」が「泣いていた」動作主、主語であるとはいえないんです。
小説の読解にかぎらず、相手の立場等を思いやる際においても、想像という言葉は、ずいぶんと誤った扱い方をされてきました。
あたかも、夢のある、間違いのない、すばらしいものであるかのように。
必要なのは想像力ではなく、客観的、論理的な思考力
いじめにおいても、差別においても、「想像力が足りない」などというのは、意味がそぐわないんです。
それを言うのなら、「客観的、論理的な思考力が足りない」です。
想像という言葉を使う人が示したいのは、思考の方向性でしょう。
しかし、個個の思考の力の差は大きいものです。
想像という言葉は、どのようにでも個の力で解釈されてしまう、危うい言葉です。
それは、自己満足にも、反省したつもりにも、わかったつもりにもなってしまう言葉なんです。
個の思考の力の状態をそのままに、方向性だけを教え諭しても、解説しても、その意味ははなはだ乏しい。
確たる力を身につけなければ、本当の世界が開かれることはありません。
客観的、論理的な思考力です。
目の前のものを理解するとは、思考するということです。客観的、論理的な思考です。それは、想像することではありません。
目の前にないものを好き勝手に思いめぐらせることが、想像です。それは、目の前のものから、目をそらすこと、思考をそらすということです。
自分勝手な想像は、客観的、論理的な思考力を磨きません。
AI、人工知能に、力があるのも、客観的、論理的な計算力があるからなんです。
その力を与えたのは、人間の客観的、論理的な思考の力です。
目の前のものへの理解、思考、それは想像ではない
例文を、もう一度、見てみましょう。
例
ゆっくりと顔を上げると、泣いていた。
今、例文に記されているのは一文のみです。
これが意味のすべてなんです。
例文には、主語が記されていません。
つまり、一文としては、意味が成り立っていない、完成していない文なんです。
意味が成り立つということは、論理的な作業
例文の意味が成り立つように、言葉を補ってみます。
文を連ねてみます。
これは論理的な作業です。
例
彼女がゴールした。観客に向かって、彼女は両手を振ると、投げキスした。そうして、深々とお辞儀をする。ゆっくりと顔を上げると、泣いていた。
この例の場合、主語が前に記されて、後続の文の主語が、省略可能になったんです。
(いくつか、文が書き進められると、同じ主語をくり返しては、読みづらくもなります。それで、主語が省略されるともいえます。)
これは、マクロ的な意味の理解、全体の理解です。
マクロ的な意味の理解は、ミクロ的な意味の理解があってこそ
ミクロ的な見方をしてみましょう。
文が連なった場合にだけ省略というものがされているわけではありません。一文の中にも注目してください。
例
彼女がゴールした。(彼女は)観客に向かって、彼女は両手を振ると、(彼女は)投げキスした。
一文の中でも、主語の省略があります。
「ゴール」する、「向か」う、「振る」、「投げキス」する、というすべての動作の動作主が「彼女」だからです。
それで、「彼女は」という題目が省略されています。
「彼女」という言葉が重要であることに気づきましょう。
すべての動作を行っているのは「彼女」です。
「彼女」がこれらの動作をしなければ、動かなかったら、動き続けなかったら、動詞も、この文も生まれなかったんです、成立しなかったんです。
省略されている言葉は、文章の中で重要なキーとなります。
それは、まさに、論理のキーです。
省略には、論理のキーが必ず存在する
誰もが、日常の生活の中で、ほとんど無意識のうちに、省略というものをしています。身近な間柄(あいだがら)での会話であれば、尚更(なおさら)のことです。
そしてまた、多くの人が無意識に、この日常の感覚というもので、文章を読んでしまっています。書いてしまっています。
文章を客観的に、論理的に読み書きする場合、この省略というものへ、意識を向けましょう。
そこに重要な論理のキーが必ず存在しています。