読解の目と写生 オリジナルの思考
見て、描くということの難しさ
目の前の具体的なものを細緻にスケッチする難しさは、その経験のある人ならば、すぐにわかることでしょう。
一匹のコオロギを描くにも、鍛えられた「目」が必要になります。
その目を持たなければ、身体の陰影はもちろん、長く太い後脚も、体よりも長い触覚も、二本の尾毛も描けないでしょう。
碌に見ようともしなければ、およそ昆虫とも言えないものを描きあげてしまうかもしれません。
それは、はたして、コオロギなのか。
我という主観
いや、これはコオロギだ、俺のコオロギだ、と言う人もいるかもしれません。
趣味としての、お遊びのスケッチならば、それでも構いませんね。
たしかに、それは「俺のコオロギ」です。
我という主観です。
学問に通じる読解
学問に通じる読解の基礎も、細緻なスケッチと同じです。
目の前の言葉を見る「目」を持てなければ、元の文章とはずいぶん違った意味内容の解釈になってしまいます。
入試の読解問題は、評論にしろ、小説にしろ、問題作成者のセンスや思想で作られているのではありません。
文字の見方、文章の読み方を学ばなければ、それは何の教えも受けていない、ただの個人の読書です。
受けとめることは、考えること
謙虚に、他者の世界を受けとめる姿勢は学問の出発点です。
しかしながら、受けとめるということは、ややもすると一方的なものになりがちです。
だから、思考していなければなりません。
受けとめることは、考えるということです。
目の前のものを見られる「目」 観察と分析
目の前のものをしっかりと見られる「目」を鍛えましょう。
鍛えるとは、観察、分析です。
それができるようになれば、今度は、目の前にコオロギを置かなくとも、実際に見たのと同じ細緻なコオロギが描けるようになります。
その先には、自分だけの、しかし、独りよがりではない、オリジナルのコオロギも見えてもきます。
それにしても、どうして、今回、僕は、コオロギを例にしたのでしょう。
コオロギは、西洋で、平和と幸運の虫とされているようなのです。
コオロギ、どうぞ、人類に、平和と幸運を。
可能性を目覚めさせるのは、自分自身
昨日で、センター試験が終わりました。
もっとも、私立の入試も、二次試験も、これからが本番です。
がんばれ、受験生。
そして、どうぞ、受験勉強を、ただのつまらぬもので終わらせぬように。
大きな可能性を、目覚めさせ、信じていけるのは、自分自身です。
生きることは可能性そのもの
学生に限らず、いくら年を重ねても、自身の可能性を眠らせてしまってはいけないのですよね。
生きていること自体が、可能性そのものです。
自律した肉体だけに頑張らせていては、申し訳ない。
がんばっていきましょう。