接続助詞とは? 順接と逆接 助動詞と助詞からの客観的読解
接続助詞は、言葉を扱う重要なキー
語彙力だけでは、書けません、読めません。
言葉と言葉を意味のあるものとしてつなぐのは、付属語の助詞と助動詞です。
付属語の理解が、書く際にも、読む際にも必要になってきます。
これまで記してきたように、付属語の一つである接続助詞は、言葉を扱う重要なキーです。
順接と逆接を掘り下げてみる
次に、順接と逆接の例文を示します。
書き方の上で、共通点があります。
どうでしょう。
(気づいていただきたいのは、二つです。)
例文
雨が降れば、地も潤うだろう。
雨が降ろうとも、地は潤わないだろう。
答えは、このすぐ下です。
ここ ここ ↓
一つ目の答え
二つの文とも、思考の主(ぬし)、主体が文字になっていません。
つまり、書き手が表に出ていません。
例文は、思考主である主語が記されていないため、考えの違いは見えても、人間の違いが見えにくくなっています。
主語と述語による意味の完成、そこには、主体の存在があります。
順接と逆接の違いは、人間の思考の違いで、主体の違いなんです。
文章においては、当然のことながら、それを記した人間の存在って重要ですよね。
しかしながら、文章というものは、書き手が表に出なくとも、記せてしまうんです。
だからこそ、読む側は、そこのところをよく理解し、注意して読まないといけないわけです。
思考の主、主体を表に出してみましょう。
雨が降れば、地も潤うだろう(とA記者は思った。)
雨が降ろうとも、地は潤わないだろう(とウチの隣のBじいさまは考えた)。
助詞、助動詞は、書き手の思考
書き手が表に出ずとも、書き手の考えが強く出るのが、接続の助詞であり、文末の助動詞です。
主節の主語の位置付けとなっている「地も」、「地は」、従属節の主語の位置にある「雨が」、これらに最終的な意味を与えているのは、書き手です。
書き手の考えが、接続助詞「ば」、「とも」となり、助動詞「だろ」、「う」、「ない」となっているんです。
順接と逆接の違いは、言葉の違いです。
それは、助詞、助動詞といった付属語の違いで、そこに、書き手がいるんです。
助詞、助動詞は、書き手の思考なんです。
気づいてほしいことは、もう一点あります。
どうでしょうか。
答えは、このすぐ下です。
ここ ここ ↓
二つ目の答え
例文には、その考えに至った根拠が記されていません。
文章を読む際に注意しなければいけないのは、その文章を書いた人間が誰かということ以上に、その文章に記されている内容を注視する必要があります。
見た目や肩書きからの判断は客観的な判断ではありません。
目の前のものの意味、内容、中身が重要なんです。
客観的という思考
読み手は、文章をありのままに受けとめたら、客観的な判断をする必要があります。
例文であれば、雨と地についての知識ですね。
本当であれば、現地に赴き、自身の目でその地を確かめ、思考を働かせたいところです。
どのようなことにおいても、自身の目で見て、考える必要があります。
自分の人生、政治家だろうが、会社だろうが、人まかせにはできませんからね。
しかしながら、現地がどこにせよ、行くことなんて、そうそう叶うわけもありませんから、誰が書いた文章にしろ、その内容を見極められる力は持つべきなんです。
それは、思考の力です。
その力は、身近な人のためにも、一生出会わぬ人のためにも、きっと、なります。
接続助詞は目立たないからこそ、力がある
条件と結果を、順接で捉えるのか、逆接で捉えるのか、一つの事象に対しての書き手の考え方、スタンスが、明確に出るのが接続語であり、接続助詞です。
さらにいえば、文頭の接続詞や副詞ほど、文中の接続助詞は目立ちません。
読み手を、書き手の思いに引き込もうとするには、接続詞や副詞よりも、文中の接続助詞のほうが効果的なんです。その力を持っているんです。
小説等の文学的文章で、文頭に接続詞や副詞が多用されないのには、そのような理由もあります。
どのような文章でも、そこに記された意味・内容は、書き手が支配している、といえます。
読む側は、書き手の考え、スタンスに沿(そ)って読むことになるわけですが、だからこそ、自身で思考の力を持って、客観的に論理的に読めないと、書き手に呑み込まれてしまう恐れがあるんですね。
※ 文頭にくる接続語は、自立語である接続詞、副詞です。接続助詞は、絶対に文頭にはきません。
ピンとこない方は、カテゴリー「日本語 文法を基礎から読解、記述へ」の基本内容の記事をお読みください。
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客観的な読み方の大きな力となるのは、接続助詞の存在に気づくことです。その扱い方を知り、自分のものとすることです。