接続詞の使い方 先を読ませる文章の書き方
接続詞は好みが分かれる
接続詞の存在は、読み手によって、好き嫌いが分かれます。
接続詞が文章中に記されていると、その先の意味が、ある程度、読めるからです。
これを、鬱陶しいと感じるか、丁寧でわかりやすいと感じるか。
先が見えない文章
先が見えない、ということは興味をそそられることでもあります。
これはどういうことなのか、この先、いったいどうなるのか、それは先を読む楽しみにつながります。
しかし、先が見えないということを、楽しみどころか、苦痛に感じる人もいるのです。
難しい文章だ、読む気をなくす、と。
それでは、書く側は困りますよね。
文章の終わりまで読んでもらわないといけませんから。
読者を想定して、接続詞を使う
書く側は、読む人間をある程度、想定して、接続詞の使用頻度を増やしたり、減らしたりすることもあります。
それは、句点、読点の打ち方、文の長短、文節の長短への気配りとまったく同じです。
意味の句切れ、意味の完成、それが長いか、短いか。
好みでも分かれるところです。
接続詞の存在は、書き手の存在そのもの
接続詞の存在は、書き手の存在、書き手の考えの表れそのものなのです。
なにしろ、文と文の関係性を示す接続詞を記すのは書き手であり、その接続詞が記されるということは、そこに書き手が大々的に現れる、書き手の考えがはっきり示されるということだから。
評論等の論理的文章であれば、大きな効果を発揮する接続詞も、小説等の文学的文章の中では、その扱いが非常に難しくなる所以(ゆえん)です。
大方の文学的文章は、登場人物に感情移入させることで成功しますから、書き手が現れる接続詞は、その使い方によって、読み手を白けさせてしまう恐れがあるのです。
また、文学的文章は、時空間の流れ、その中での人間の変化の表現です。
現実世界は、一々、意味づけなどされずに、時間とともに流れ、変化していきますよね。
文学的文章は、それを表現しているわけです。
それを接続詞で意味を限定してしまうのは、時空間の流れの制限、停止をしてしまうともいえるのです。
だから、接続詞の扱いを誤ると、作品の時空間を壊し、完成度も落としてしまうことになるのです。
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